いまこそ『ALIVEヒーローフェスティバル』を読んでほしいっていう話
ワールドエンドヒーローズリリース4周年おめでとうございます!!!!!
久しぶりに記事を書きます。
ここ最近ブログやTwitterを更新していなかったのですが、ジャンルを移動したとか体調とかそういったことではなく、シンプル身バレ*1したせいです。ウケる
本当は過去のイベントシナリオの話とか、バケツ通信の話とかこの1年で色々しているはずだったのですが、気まずさに負けました!!わっしょい!!
でもどうしてもワヒロ4周年お祝いしたかったので、開き直って記事を書くことにしました。いえーいみてるー!?(憤怒)
見てる人も見てない人も、ワヒロリリースは全人類にとっての大きな一歩であり我が文明の宝ですので、おおいに祝ってください。よろしくお願いします。
ということで、この記事は、大好きなイベントストーリー『ALIVEヒーローフェスティバル』の話をする記事です。
●ハッピーエンドの先へ
【イベント予告】
— 【公式】ワールドエンドヒーローズ (@worldendheroes) 2019年11月17日
11/20(水)12:00より、討伐イベント《ALIVEヒーローフェスティバル》開始予定‼
🏆イベント報酬
SSR:北村倫理/SSR:三津木慎/SR:透野光希/SR:浅桐真大
🎉イベント特効
「リリース1周年記念 ステップアップガチャ」で手に入る、「1周年記念SSRカード」15枚が特効カードに!#ワヒロ pic.twitter.com/5KJTr8Cx2S
『ALIVEヒーローフェスティバル』は、ワヒロのアプリリリース1周年を記念して開催されたイベントです。
ワヒロではイベントストーリーはすべて"本編後"であるという設定なので、当然このイベントも本編軸の後の世界を舞台としています。
このイベントが開催されていた当時は、本編=メインストーリーがリアルタイムで更新されていた最中でしたので、各キャラクターの境遇や関係性がわからない部分、隠されていた部分も多くありました。それでももちろん面白いお話で楽しめたのですが、本編が完結した現在、改めてこのイベントストーリーをぜひ読んでもらいたい!と思うのです。
なぜなら、このイベントが“本編の続き”であることがすごく意味がある、そういうふうに思える物語だからなのです。
大前提のお話なのですが、ワールドエンドヒーローズという作品はスマホアプリでプレイするソーシャルゲームとして作られています。
ソシャゲにも色々な形があるとは思いますが、その多くは毎日のログインを前提にプレイスタイルが考えられ、定期的にイベントが開催され、その時々で課金システムに誘導することで利益を上げる、そういう仕組みになっているものと思います。実際、ワヒロの制作陣へのインタビューの中で、「毎日気軽にプレイできるように、システム面のストレスを意図的に排除した」というような内容を読んだ覚えがあります。
ワヒロのゲームシステムは、「プレイヤーの日常に組み込まれるもの」というイメージモデルで制作されているということですね。
そのような、読者の日常のなかにある作品として作られるにあたり、大きな障壁となってくるのが、リアルタイムで長期間ストーリーを進行させ続ける必要があるということです。
どんな物語にも、始まりがあり終わりがあります。ワールドエンドヒーローズという作品は、残念ながら2020年にサービスを終了し、作品も完結に至りましたが、たとえサービスが続いていたとしても本編はきちんと完結していたはずです。実際、浅桐真大が作中の最序盤から繰り返し発言している「結果は変わらなくても、過程はドラマを描く」というセリフは本編のストーリー展開そのものを示唆しており、第一章更新時点から本編の結末は明確に予定されていたものと推察できます。本編完結後サービスが続いていた場合どのように展開する予定だったのか、イベントストーリーを随時更新する手はずだったのかそれとも第二部的な構想があったのか、もはや妄想することしかできませんが、少なくともアプリリリース最初期から、ワヒロの「本編の終わり」は明確に意図されており、しかしそれではアプリとしての運営が難しいというところから、「イベントストーリーはメインストーリーの後日談である」という設定が創出されたものだと思われます。
他の記事でも書いたことがあるのですが、ワヒロのキャラクターってみんな主人公的資質を持っているんですよね。そんな主人公たちを“本編の主人公三津木慎”が救う物語、という、入れ子みたいな構造になっているお話だと思っています。そして後日談であるイベントストーリーで、いよいよ各キャラクターたちの“主人公としての物語”が描かれていく。そうした構成が本当に面白いです。
そんな中、1周年という特別な節目で更新された『ALIVEヒーローフェスティバル』というイベントは、本編の主人公三津木慎が主人公となるイベントストーリーなのです。
慎くんが担当しているイベストは他にも海上訓練*2がありますが、やはり1周年記念のAHF*3は明確に“主人公三津木慎のその後の物語”として作られていると思います。
メインストーリーの終わり方がハッピーエンドかどうかというのは、結構読者によって感じ方に差が有ると思います。特に三津木慎というキャラクターに感情を割いていると、それでいいのか…!?というふうに、展開について考え込んでしまうことは少なからずあると思います。
ただ、『ALIVEヒーローフェスティバル』というイベントストーリーがあることで、慎くんの物語の続きがある。この描かれ方は、はっきりと“ハッピーエンドの、その先”という概念なのだと私は思います。
また、ひとつの結末を迎えた物語の主人公に、“続きがある”ということ自体、すごくなんというか、エモいことだと私は感じています。ソーシャルゲームという、日常に入り込む形の物語において、それぞれのキャラクターの“続き”が時間の経過と共に得られていく。これって、こう言うとおおげさなのですが「同じ時間を生きている」ということじゃないでしょうか。
サービス終了して丸2年が経ちましたが、当時リアルタイムでこの作品を体験できたことは本当に代えがたいゲーム体験だった、キャラクターの生を感じられた大切な時間だったと思うのです。『ALIVEヒーローフェスティバル』というイベントストーリーに触れると、そういった深い感傷に触れることができます。本編が完結し、アプリがオフライン版になり、ゆっくりと物語を振り返ることができる今だからこそ、イベントストーリーをぜひ読んでもらいたいです。
●まあ推しの話だしね
御託はいい、萌えを叫ぶのだ
今萌えって死語ですか?チョベリバ
当社比まじめなことを考えている記事もありますので、よろしければこちらも併せてごらんください。
(AHFの話題はリンク先記事の後半部分です。)
なんかいろいろ言いましたがとにかく慎くんが可愛くてかっこよくて最高な話だから全人類読んでくれ!!!そういうことです。
・「賞を取る」「認められる」という欲が見える!最高!!
前も言ったけど慎くんって自己犠牲のヒーローじゃないですか。慎くんの我欲って全然見えてこないんですよねマジでずっと良い子。なんだけどこのイベストでは「母親(の過保護過干渉による呪い)に打ち勝ちたい」「(みんなに)ヒーローとして認めてもらいたい」という明確な欲求の元に行動していて、それが本当にすばらしい。やっぱり欲ってイコール人間味みたいなとこあるじゃないですか。それに浅桐さんも言ってたけどそういう欲とか周りの目を意識するっていうことがないと向上心というものは生まれないと思うんですよね。慎くんは本編でもヒーローに足るために努力を重ねる人ではありましたけど、それは自分のことを至らないと思っているからなんですよね。でもそしたら、ヒーローとしての能力が十分になったら、そこで止まってしまうじゃないですか。でもAHFでは慎くんは上昇志向をしっかりと見せてくれる!最高!!伸びしろ!!!可能性の権化!!!!好きだ
・倫理くんとの友情が最高!!
北村倫理くんとの関係性がものすごくじっくり描かれていて素晴らしいので読んでください(圧)
本編は主に慎くんと透野光希くんの友情が丁寧に丁寧に描かれていたんですけど、AHFでは光希くんとの友情とは全然違う、倫理くんとの一対一の友情が描かれています。
そもそも倫理くんは慎くんに対してはじめからとても友好的です。それは慎くんが母親の過干渉と依存を受けていた身で、その母親からの呪いのために決して恵まれたとは言えない子ども時代を送ったからであり、そして慎くんがこの呪いに対して、フラットに共存しようとしている=母親への感情を否定も肯定もしないという態度をとり続けているからです。北村倫理はこうした呪いを抱えどうしようもなく救われない人を救う、というとてつもない志をもってヒーローになっているのであり、倫理くんにとって慎くんは共感を持つ同位体であるとともに“救うべき対象”になっています。
一方慎くんにとって倫理くんは「大切な誰かを守っている、尊敬すべき憧れのヒーロー」のひとりです。また慎くんは「誰かを守るために戦い傷ついているヒーローを守りたい」と思っているため、そんなヒーローである倫理くんは慎くんの“守るべき人”でもあります。
本編ではこうした慎くんと倫理くんの関係は、敵として現れる倫理くんとの鮮烈な邂逅や、世界を守る戦いの中で、ドラマチックに描かれていきます。先ほど、本編は主に慎くんと光希くんの友情だと言ったのですが、倫理くんの言動は折に触れて慎くんを揺さぶっていますし、お話の中で慎くんは倫理くんと、光希くんとは異なる形で関係性を築いていきます。……が、本編の結末を経て、そうした本編上の関係性はストーリー上“無かったこと”になりました。
その、世界を守る戦いが無かった世界線での、慎くんと倫理くんの友情。イベストの各話タイトルを見るだけでも、実に色々と考えさせられます。最高。
特にイベント後半で慎くんと倫理くんが対決する際の、“倫理くんが考える慎くんとの正面衝突”と“慎くんが考えた「倫理くんと正々堂々勝負するための策」”が衝突する演出が本当に良い……
この、しっかりとお互いの方を向いていて、理解をしていて、共感もあるけど、寄りかからない、それぞれの足でそれぞれのすべきことを抱えて立っているという関係性があまりにも尊すぎる。好きだ
・山野井先生が最高!!
私このイベスト更新当時からずっと言ってるんですけど、このイベントに出てくるネームドのモブキャラである山野井先生というキャラクターが好きすぎるんですね……
山野井先生をざっと紹介すると
こういう人なんですけども。
いやほんとうに好き。何が好きって、こんなに慎くんのことを真剣に想っている人なのに、全然慎くんのこと救えてないところ。
このイベントに出てくるまで、慎くんから「空気みたいだった子ども時代」の話が幾度となく出てきているのに、先生の存在感は一切なかったんですよ。卒業して何年もたつ慎くんのこと一目見て気づいて、声かけてくれるくらいの先生なのに……まあそれはやっぱり、当時の慎くんにとってこの先生は「母親の呪いを鵜呑みにして加担する存在」だったからなんですけど……でもそれは一切悪意じゃなくて、むしろ慎くんのことを想ってのことでさえある。こんなに優しい、良い先生なのに、児童のことなんにも救えてないんですよ。それってやっぱり、この物語が『ワールドエンドヒーローズ』で、山野井先生は“ヒーローじゃない”からなんです。
この作品って本当に、ヒーローじゃない一般人への視線が冷たいです。悪意を持っているし、愚かだし、利己的で意思が弱く、理想や正義があったとて決して同じ方向を向いていない。理不尽に頭を垂れている。ワヒロにおける一般の人、名もなき人々というのは、おおよそこういう描かれ方をしています。そして、こんな“世界”を、ヒーローは守るのか?ヒーロー自身が傷ついてでも?なぜ?ということを、プレイヤーである私たちに問いかけてくる。実にむごい物語です。
そしてだからこそ、主役であるヒーローたちは“特別”な存在です。
ヒーローたちは倫理的に超越した存在ではなく、彼らもまた同じような弱さを持っているふうに描かれます。弱さがあり、エゴがあり、時に挫折し迷う。しかし、そこから立ち上がり、立ち向かう決意を持っている。その強さ、"決意し選択する力"がヒーローの資質である。それを、「運命を変える力」という名前で、描いているのだと思います。
運命を変える力を持たない、あるいは“及ばない”、ヒーローではない人。彼らが特別ではないからこそ、ヒーローはより輝きを増すし、傷ついてさえ美しく感じる。だから私は山野井先生みたいな、特に、善意があるのに人を救えないという描かれ方をしているキャラクターが本当に好きなんです。ある意味では物語構築における犠牲者ですが、ヒーローの特別さの礎でありますし、「何もできない私たち」現実における読者の一人である“私”としても強い共感を覚えます。同じようなキャラクターで、矢後さんのイベスト『春の昨日の、その明日。』に出てくる看護師さんも好きです。
そしてAHFでは、そんな“及ばない人”山野井先生の言葉が、慎くんの赤英賞のきっかけになります。
なんだかそれが、すごく救われる気持ちになるんです。
●終わり
ということで、今だからこそ読んでほしい『ALIVEヒーローフェスティバル』というお話でした。
………………ちがくね?
ワヒロリリース4周年おめでとう!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
すみません。目的を見失ってしまいました。
実は色々とお祝い記事について考え準備しようと思ったんですがしっくりくるものが書けず……
もういっそめちゃくちゃ好きなものについて書いて「こんな夢中なオタクがいるんだ」と思ってもらう方がいいんじゃないかと思いこういう記事になりました。まことにすみません。
今後も元気にワヒロを愛していきたいと思います。いつもありがとうございます。LOVE!!!!!!!!
三津木慎の選択
三津木慎くんお誕生日おめでとう!!!!!!!!!!!!!!!
慎くん……好きだ
今回は慎くんのことについて考えていきたいのですが、慎くんはワヒロの主人公なので、慎くんが背負っているものがイコール『ワールドエンドヒーローズ』という物語の主題であると思うのですよね。
そして、その慎くんが背負っているテーマというのは、わざといろんな解釈ができるように演出しているんじゃないかなあと思っております。もちろん他のキャラクターも同様に、色々な見方ができるのですが、慎くんに関してはより解釈のバッファが広いのかな~という印象です。主題を背負うという性質上のものなのでしょうね……
そういうわけで、今回はより私個人の解釈に偏ってしまう*1と思うのですが、ざっくり慎くんのテーマについて考えていきたい所存です。よろしくお願いします。
●それがお前の選択ならば
三津木 慎
心優しい、素直でまじめな理系少年。
「人の役に立てたら幸せ」という思いの強い、縁の下の力持ち。
高校入学以前は体が弱く、学校を休みがちだったため、
クラスメイトの記憶に残らないくらい影の薄い存在だった。
止まっていた時間を取り戻すべく、日々努力をしている。
(公式サイトキャラクター紹介より引用)
慎くんのストーリーは本編+イベント『ALIVEヒーローフェスティバル』で完結するのかなあと解釈しているのですが、やっぱりこの慎くんの物語の肝は"存在意義のなかったものが、存在意義を獲得する"っていうところだと思うのですね。
「いてもいなくても同じ」という評価を自他ともに受けていた慎くんが、自己を獲得する物語だと思うのです。
慎くんが光希くんと浅桐さんと、そしてヒーローたちみんなと出会い、「世界を守るヒーローを守りたい」という意志を持ち、最終的にその意志を徹してヒーローたちを守る。その結果、慎くんは「いてもいなくても同じ」ではなく、光希くんをはじめ、ヒーローたちみんなに、ひいて世界に必要とされる。そういうストーリーになっていると思います。
そして、慎くんをそのようにヒーローたらしめるのは、常に慎くん自身の自認と選択なのです。慎くんにおいて、存在意義とは自認と選択によってもたらされる。
ここ、この"自認と選択"が物語の主題なのではないかと、私は思っているんですね。
物語の始まる時点では、慎くんは自分についての認識が人任せな状態です。このことは、慎くんのサイドストーリーに詳細に描かれています。
「お母さんに言われたから、自分は体が弱く何もできないと思っている」という状況です。
母親からの影響という点で言うと、久森くんについて書いた記事の中でもお母さんからの影響を受けていることに触れたんですが、久森くんが志向性(普通を目指す)という点で影響を受けているのみなのに対し、慎くんは明確に自認を母親に委ねている状況からスタートしています。
久森くんの記事では、意外と本人が普通でないことを自覚しているな~という感想を述べたのですが、ここに明確な描き分けがあるんですね……久森くんは自認という点においてはかなりしっかりと自立しています。
それがヒーローとの出会いにより、一変します。ここで慎くんは、これまでの(母親に委ねていた)自認を揺るがす見解を光希くんから受け取り、
そして、ヒーローになることを選択します。
シナリオの文章から見ても、慎くんが"選択する"シーンであることが明解にされていますね。
こうしてヒーローになった慎くんは、守りたいものを「ヒーローであるみんなの運命」と定めて戦いに身を投じることになります。
この戦いは世界を守る戦いであり、その決着を左右する鍵のように慎くんは描かれていくかに思えますが、実際のところはそうではありません。ここがすごくミソで、面白さを感じている部分なのですが、実は慎くんは、世界の命運に関する戦いの、戦況を左右する選択においては、関わっていないのです。
戦局を変え道を切り拓いているのは、武居一孝であり、浅桐真大です。慎くんは運命の分岐点として扱われているものの、戦局を動かしているわけではありません。もしその場に慎くんがいなかったなら、別のヒーローが分岐点として存在したでしょう。読者のみならずALIVEのヒーローもUNKNOWNも、慎くんがカギになる"と思い込んでいるから、そうなっている"のです。
慎くん自身の戦いが描かれるのは、100~105話の773-B戦。光希くんについて書いた記事でも触れましたが、この773-B戦では、"自己承認と他人からの承認"が描かれています。
「僕自身は、ヒーローである」
「僕を助けてくれた、君はヒーローである」
こうした自認と承認が、光希くんを救うことに繋がります。そのあたりは過去の記事で書いているので、良かったらそちらも併せてご覧ください。
そして、この戦いに身を投じることへの慎くんの決意は、かなり念入りに、丁寧に描写されています。
自問自答の末の"選択"が、慎くんを戦場へと導きます。
各話タイトルも秀逸だと思う。100話「自分の正しさ」の、この"正しさ"って、正義や正確性という意味ではないですよね。"自分の、自身らしさ"という意味だと思います。「この行動をする自分が、僕にとって正しい」という"正しさ"です。ワヒロはこの意味の"正しさ"をよく使う物語で、他のキャラやストーリーを解釈するうえでもよく対面する概念です。自認を自己決断を描くことに余念がない。
もうこのシーンの慎くんは、母親に自己解釈を委ねていた慎くんではありません。己を問うて、己を見つけた慎くんです。
慎くんのこの決断のシーンと戦いとを経て、物語は最終決戦へと向かい、そして辛くも世界を守ることに成功します。そして、失ったものと直面します。
この演出が本当に好きで……
指揮官(プレイヤー)は今まで、ヒーローたちの活躍を見守りながら、システムとして「どちらを選んでも結果が変わらない選択肢」を選び続けてきたわけですよね。
そしてこの重大なシーンで、いつもの「選択肢」が出る。この、指揮官(プレイヤー)が有する決断の権利を、三津木慎が壊し、奪い取っていく。ヒーロー三津木慎にしか変えることのできない運命を、彼自身の決断によって掴み取っていく。
運命を変えるのは指揮官ではなく、いつだってヒーローであった。そしてこの、指揮官から選択肢が奪われ、物語の流れが大きく変わるこの瞬間が、運命が変わる瞬間であり、ヒーロー三津木慎が一番ヒーローである瞬間なのです。ヒーローは、運命を変えるからヒーローなのです。
そしてこの慎くんの決断は、慎くんの守りたいもの、すなわち「ヒーローであるみんなの運命を守ること」に由来しています。ヒーローであるみんなの運命、それはこの物語が始まるまでに、あるいは始まってからこのシーンまでの間に、ヒーローたち自身が決断し選択した結果です。そうであるということが、慎くんの決断の前にじっくりと描かれます。選択しなかった彼らが、立ち向かわなかった彼らが、どうなるのか。
この演出は非常に感傷的ですね……どうしても、ヒーローたちの"選択"の重みを考えてしまう。命や、在り方や、矜持や、愛情を、全て賭けて選び取ってきて、その果てにこの場所で戦ったのだということを思ってしまう。
慎くんは、それをなかったことには絶対にしたくない。彼自身がヒーローの自認と選択に向き合い、その重みを身をもって知っているからです。
そしてだからこそ、慎くんの選択を受け入れられない光希くんがいます。
慎くんと光希くんは、お互いがお互いのヒーローである。救い合う存在だからこそ、光希くんは慎くんを必要とします。
光希くんが慎くんをヒーローとして必要とする世界は、「三津木慎がいてもいなくても変わらない世界」とはもう違うものです。
別の世界線、別の運命。
その運命は、三津木慎が自己と向き合い、選択の果てに掴み取ったもの。
たとえ記憶がないとしても、それはハッピーエンドなのではないかと、私は思うのです。
●それは明日を生きること
1周年記念イベントとして開催された『ALIVEヒーローフェスティバル』では、慎くんと倫理くんの友情、そして目指すものが語られます。
三津木慎というヒーローは、これまで一貫して自己犠牲のヒーローでした。自分自身がヒーローであるという自認を獲得しても、「自分はいなくても変わらない」という自己評価を最後まで覆すことができなかったからです。
だからこそ、このイベントでは、"三津木慎が他者(世界)に認められる"という物語が描かれます。そしてその発端が「変わった自分を亡き母親に認めてもらう」という、慎くんの非常に個人的なこだわり、欲求に基づいているわけです。
慎くんの優しさ、精神の美しさそのままに、自己犠牲のヒーローの「その先」を描く、とても巧みな物語だと思います。
ワヒロの物語は、自己犠牲を決して肯定はしていない。ワヒロは生きることを、どう生きるかを描いている物語だからです。そして慎くんにも、ヒーロー三津木慎として、「どう生きるのか?」というテーマが与えられ、描かれています。
だから私は、この『ALIVEヒーローフェスティバル』までが、三津木慎というヒーローの物語であると思っているんです。メインストーリーでは完結していない。慎くんは世界を守り、ヒーローとして戦う。それだけでなく、三津木慎自身として生きていく。
これが描かれてはじめて、三津木慎というヒーローの物語になると思うのです。
●おわり
今年も慎くんのお誕生日のお祝いができて、指揮官は、うれしい……
語っているうちにだんだんヒートアップしてしまい、読みにくかったらすみません笑。
慎くんはもちろんなのですが『ALIVEヒーローフェスティバル』のイベントが大好きなのでそれはまたどこかでお話しできたらいいなあと…思います……
そして、1年をかけてキャラのお誕生日ごとに毎回感想文記事を書いてきたのですが、これで全ヒーロー分の感想文を書くことができました!!ありがとう!!たくさん書かせてくれてありがとう!!BIG LOVE
書き切れていないことや語り足りないこともあれこれあるので、これからももっともっとワヒロを楽しんでいきたい所存です!!
それでは慎くんハッピーバースデー!!!!!盛大に祝ってやる!!!!!!おめでとうありがとう!!!!!!
*1:Q.解釈が偏ってるのはいつものことでは?
A.それはね、そう。
浅桐真大は天才だ
浅桐真大さんお誕生日おめでとうございます!!!!!!!!!
浅桐さんはワヒロのメインテーマみたいな存在だよなあと思っている次第です。
オンライン版のアプリスタート画面は、何人かの中で浅桐さんが大きくピックアップされている構図だったのですが、まさにひときわ存在感を放つメインキャラクター。
個人的には共感値のとても高い、仲良くなりたい願望の強いキャラです(笑)
厳しいことも言うけど、エンタメを大事にしていてユーモアあふれる人。いつも合宿施設にとんでもねえ事件を引き起こしてくれています。ミニイベなどでのまたお前か率よ。いつも楽しませてもらっています。
さて、そんな浅桐さんなのですが、彼のキャラクター的な性質というのは非常に難解なのです。
……というかそもそも、浅桐さんにまつわる描写自体が、他と比べても圧倒的に難解です。
ですがその難解な中でも比較的わかりやすい特異な点に、「天才技術者」というのがあります。突出した才能は、それだけでヒーローの素質だと思うのです。
というわけで今回は、浅桐真大は天才である、というお話の記事です。
●"魂"の在処
浅桐 真大
崖縁生徒のの人体強化を手がける、神経質な天才技術者。
666回の交通事故を経て、世の真理に目覚めた。
フィクションをこよなく愛し、中でも特撮においては、
制服に変身ベルトを装着するほどの情熱を注いでいる。
留年をしたのは、自身が起こした暴発事故が原因。
(公式サイトキャラクター紹介より引用)
ワヒロのキャラクターにはキャッチコピーがつけられていて、それは公式サイトなどで見ることができるのですが、浅桐さんのキャッチコピーは「ハッピーエンドを愛する崖縁の悪魔」となっています。
それ以外にも劇中で悪魔だのナイトメアだのと呼ばれているのですが、これって悪魔的な性質、悪魔的な性格という以上に、"「悪魔の証明」をする者"という意味が込められていると思うのですよね。
悪魔の証明って、「『無い』ということを証明する」という、ざっくり言うとそういうことだと思うのですが、作中では誤用の意味合い(存在する証明の不可能性という意味)を用いられています。
ただ本質的な意味はやっぱり、浅桐真大が「人間の限界は『無い』」ことを証明する、っていう意味だと思うのですよね。
この証明の発点となっているのが、「人間の肉体と魂は別のものである」という考え方です。肉体と魂は別のものであるから、肉体の限界に縛られることはない。よって限界が存在しない、というふうに考えているわけですね。
そしてこの考え方、心身別なりという考え方は、実はワヒロ世界において"真理"なのです。ワヒロの世界は、ワールド・コードが運命を定めている世界であり、魂によってその深淵に触れることができる世界であるからです。
しかしやっぱりワヒロの世界は「魂」が有る世界なんだな……
— Kiki (@kiki8138game) 2019年12月17日
で、大問題の謎空間の話をするんですけど。もうさ~~いつもワヒロくんのこと超重厚SFだと思って読んでるから出てくるたびにびっくりするんだけどこの世界、「魂」が存在すんだよね~!?いや臨死て!?反則だよ~!?て一瞬思ったけどなにも反則じゃない…魂があるから……いつもびっくりする
— Kiki (@kiki8138game) 2020年7月14日
これは「魂」という概念に翻弄されている私のツイート。
私、ワヒロをはじめてからずっとこの「魂」という概念にこだわって振り回され続けているのですが、なぜかというとこれは作品が"人間の本質"というものに触れ、描き、評価しているかどうかにかかわるのです。
たとえば、病気や事故などで自分の肉体の一部を失ってしまったとします。そこにドナー提供の臓器であるとか、義体などを用いて代替した場合、はじめにあった「私」から一部が「私でないもの」に変わったことになります。その「私でないもの」を含む「私」は、本当に完全にもとの「私」と同一でしょうか?
これは20世紀哲学、特に日常言語学派でおおいに取沙汰された命題です。有名なところだとウィトゲンシュタイン*1などでしょうか。この哲学の命題はちゃんと解決をされており、「私の一部」で「私」を代替することはできない、と証明されています。わかりやすく言うとドナーも義体も大丈夫、私の一部だよということです。この命題の解決は、医療や科学技術に自信と発展を与えました。こうした哲学的命題の解決が、こんにちの技術発展を支えているんですね。
そして、ワヒロの世界ではこうした「私」という概念、人間の本質という概念が"魂"という言葉で表現されています。ここが重要なのですが、ワールド・コードという存在によって、その"魂"が物理的に実存できるという世界です。そういう仕組みの世界なのです。
浅桐さんはこうした「世界の仕組み」と言えるものの根底に、自力で気づいた人間、ということになります。これはたとえて言うならば、ニュートンが重力を発見し、ガリレオが地球が動いていることを発見したのと同じです。しかも浅桐さんはこの発見を人為的に行っています。666回もの事故という、己の人体を使用した検証実験によって。これはかなり尋常じゃない執着ですが、
どうもそのはじまりが、本来の意味の「事故」、あるいは諦観による希死念慮であったかのような、そういう解釈を可能にする*2描写がなされています。
この最初の事故のとき、浅桐さんは7歳です。事故の真意がどちらにせよ、あまりにも早熟すぎると言わざるを得ません。本当に、浅桐真大という人物は本来の意味での"天才"なのでしょう。
●天才の目線
"天才"である浅桐さんの考えることは、常人とは一線を画しています。
たとえば強くてかっこいいヒーローに憧れるとき、
浅桐真大は「自分には見えない、ヒーローに見えているもの」のことを考えている。
浅桐さんは探求心や知的好奇心が強く、新しいものに対して柔軟な態度をとる性質の人です。これは、浅桐さんが幼少のころから持っている彼の気質、ワヒロでいうところの"魂"であるように描写されています。
世界を上から見下ろす目線は、ヒーローの目線。"ヒーロー"が一段上に立ち、その下にある守るべきものを守る。浅桐さんはそういう解釈をしているようです。
実際物語の構築を解釈するとき、どうしてもそのような解釈にならざるをえないところがあり、浅桐さんの「上から」思想はひとつの正しさでもあると思います。
そしてこれ、つくづくワヒロだなあと思ったのですが、実際にヒーローになった浅桐さんが上から見てみたその景色は、
これ。
もうとにかく、この『ワールドエンドヒーローズ』という作品において、完全に一貫している思想なんですが、この世界というのはつまらない、地獄があふれた苦しい世界なのです。ヒーローに憧れた少年が守るべき世界を見下ろしたとき「美しい世界だ」とはならないのですね……。「"それでも"世界は美しい」にすらならない。凡俗・広大・退屈。救われない世界なのです。
そしてこの救われない「ヒーローからの視点」を得た浅桐さんが下した世界への判断が、
ということなのですね……。
こうした判断や普段の振る舞いなどを見ていると、浅桐真大という人物は非常にポジティブな人間に見えるのですが、それは浅桐さんがハッピーエンドを強く信奉しているというのが原因にありそうです。
エンタメから多大な影響を受け、ハッピーエンドの物語を強く信奉するに至り、それが現在のヒーロー活動の根幹に大きくエフェクトしている。だからこそ浅桐さんはフィクションを大切にし、敬意を払います。
また、今見てきた通り、こうした「ヒーローからの視点」と「ヒーローが守るべきものをどう評するか」において、浅桐さんはかなり自覚的と言えます。だからこそ北村倫理と共通項があるというふうに語られているのだと思います。
そして救われない世界側からヒーローを見つけた、「底」からの視点を持つ倫理くんとは真逆で、浅桐さんはヒーローの視点を追い求め、その先で救われない世界を見つけた。だから二人は「同じだが、ベクトルは逆」なのでしょうね。
●おわり
ほかにも色々たくさんあるのですが、今回の記事はここまでとさせてください……
浅桐さんはエンタメが好きでユーモアも情緒の高低も人一倍あるのですが、「起こってしまった感情」に対してはとても客観的なように見受けられるんですね。それはやはり、浅桐真大が"天才"であり、"魂"つまり本質について考え続けた人だからだと思うのです。ドライなわけではなく、研究心が先に働いているのだと思うのですよね。
個人的に、"天才"を描くのって本当に難しいと思うんですね。浅桐真大が"天才"であることに、こんなに説得力があるのってものすごい描写力だと思うんですよ……
そんなこんなで浅桐さんハッピーバースデー!!!!!!!!!楽しいことをたくさんして元気溌溂な一日をお過ごしください!!!!!!!!
北村倫理が"すべて"を守る
北村倫理くんお誕生日おめでとう!!!!!!!!
倫理くんは本当に唯一無二のキャラクターだと思っております。
格差の下側から世界を正しく斜に見る諦めと、"ヒーロー"という存在への純粋な憧れを同時に持ち合わせている人。
北村倫理がいないと、ワヒロの独特な世界観は存在できないと思う。いてくれて本当にありがとう……
以前、倫理くんについてはイベスト「名探偵北村倫理の永久」のお話をした記事でちょっとだけ書きました。
そのときは「倫理くんはメタ認知的技能がすごく発達している」というようなお話をしたのですが、また同じお話をするのはつまらないかなと思うので、今回は倫理くんとワヒロにおける"世界"の捉え方、みたいなざっくりした内容の記事です。
●ワヒロは"何"を守っているか
北村 倫理
新興宗教が母体である愛教学院に所属している、
自称「弱者」で「クズ」の認可外ヒーロー。
天真爛漫で人懐っこい性格だが、発言のほとんどが真意不明の
嘘つき体質。自分を含む底辺であがく人々を救うため、
「すべての異端」を守る「普通のヒーロー」を目指している。
(公式サイトキャラクター紹介より引用)
スクエニ作品に明るくないことが本当に悔やまれるんですが、急に同社他作品の話をします。
もしかして「世界観の根底を担う対の二人」というキャラクターの構成が、わりとスクエニあるあるなのかなと思ったのです。
とはいえ私の理解があるスクエニ作品は、有名すぎてあらすじだけは知っている『ファイナルファンタジーⅦ』と、一通りやったことがある『キングダムハーツ』シリーズだけなので、今ものすごくトンチンカンな話をしているかもしれません。以下の記述はこの軽薄すぎる知識に拠っているので、スクエニ作品に詳しい方、ぜひツッコミを入れてください。よろしくお願いします。
それで、私の僅かながらのスクエニ知識をかき集めてみると、主役と敵役/主役とライバルの二人というのは「そのキャラクターに世界観の概念を背負っており、かつ、対になっている」という二人なのです。何を当たり前のことを言っているんだという感じなんですが、とりあえず説明させてください。
FF7のクラウドとセフィロスだったり、KHのソラとリク*1であったり、これらの作品の主人公と敵役は、生い立ちからして物語の主軸となる戦いの根幹に関わっています。さらにその戦いが世界を揺るがす、つまり世界観の根幹に関わっており、その戦いに勝利することで主人公は救世の英雄となります。これはRPGというゲームシステムの枠組みの中で深い世界観を演出するためにこうした設定がストーリーに練り込まれたのだと思うのですが、そのため、結果的に主役および敵役は「世界観の決定に関する重大な要素」を生い立ちとして背負わされるに至りました。
……何言ってるかよくわからなくなってきたので要約すると、
RPGで深い世界観を作る→戦って勝つことが世界を救うことになる
→勝利することが世界観を肯定しなければならない
→勝利する主役、および敗北する敵役が世界観の正負を象徴する
→主役/敵役が世界観のモチーフを背負う
→ストーリーの辻褄が合うために、キャラクターの生い立ちとして描かれる
→結果的に主役/敵役が世界にとって超重要人物になる
→作品の世界観を語る上でも重要なキーワードになる
と、こんな感じです。
スクエニ作品に限らずRPG作品全般において、よく作られてきた構成と言えるかもしれません。他の例では『テイルズオブ』シリーズとかも挙げられるような気がします。
で、翻ってワヒロを見てみると、このメインストーリーであるならば、従来なら"主役と敵役"は「透野光希と七見薔明」あるいは「浅桐真大と七見薔明」であるはずなのです。
というのはつまり、概念の対立として戦いを描くならば、「ひとでないもの」「運命から外れ運命を否定するもの」七見薔明に対立する存在を主役として立てなければいけないはずなのです。だから「ひとになるもの」透野光希であったり「運命の力を使うもの」浅桐真大であったり、これらの存在が主役として立つはずなのです。
しかしながらご存じのように、ワヒロの主人公は我らが三津木慎くんであります。七見が徹底して慎くんを"異物"として扱うのは、ストーリーとして「七見の識る運命に存在しなかったから」という理由付け以上に、こうした概念の対立と無関係な存在だからだというのがあります。三津木慎は、「七見薔明と戦う"理由"」になることができない。だから七見はずっと慎くんを異物とみなしつつ、扱いとしては非常にないがしろにするんですね。こう考えると、七見薔明のCVがFF7でクラウドを演じた櫻井孝宏さんであることが俄然意義深く思えてきました。
なんにしろこのような状態で、ワヒロにおいて「ラスボスとの最終決戦」は、世界観の根幹に関わる対立を演出することができませんでした。ワヒロの物語は、「"主人公"が"世界を守るヒーロー"を守る物語」であるからです。そうすると、"世界観を語る重要なキーワード"は他の対立で見せなければいけません。
いつ北村倫理の話すんねんと思われているかもしれませんが大変すみません。ここからが本題です。前振り長すぎ。
ワヒロの物語は「"世界を守るヒーロー"を守る物語」です。となると、ヒーローが守る"世界"について、考えざるを得ません。"世界"って何なのか。なぜ肯定され、守るべきなのか。あるいは、私たちは何を「大事にするべき世界」だとみなさければならないか。
私がワヒロから受け取った答えは、こうです。
「"今あるすべて"が、"世界"である」
そしてこの答えの根幹を担っている、非常に重要な概念を背負っているキャラクターこそが、北村倫理である、という、そういう話なんですな……(?)
●"世界"の概念、"ヒーロー"の概念
倫理くんは常に自分を「底」の人間と自称します。恵まれない家庭に生まれ、多くの不幸を目にし、あるいは体験してきて、世の中に蔓延している絶望や悲哀、不義理、愚かしさ、そういう"良くない"と思われるものをよく知っている。そういう生い立ちを持つキャラクターです。
その一方で、高いヒーロー能力を持ち、また純粋な"ヒーロー"という存在への憧れも持っています。そしてその憧れは、倫理くんにとっての「理想の在り方」という形に転化していきます。
さっき上で、世界観の根幹に関わる対立、という話をしました。その話になぞらえるならば、代表校として選ばれたヒーローたち全員に対立する存在が北村倫理である、という形になります。
ですが倫理くんにおいては、対立する、という語はあまり適切でない。
倫理くんは概念としてヒーローたちと対立するというよりは、補集合なのです。
ヒーローたちは各々、守るべきものを明確に持っています。ということは、「守るべきものでないもの」が存在するということです。
良くないと判断されたもの。正義にそぐわず、倫理にもとると判断されたもの。あるいは、より大事なものを守る過程で、見過ごされ救い漏らされたもの。そうしたものを、北村倫理は守ろうとする。そのために、時には「ヒーローが守るもの」と戦いさえする。
北村倫理が存在することで、「守るべきものでないもの」は存在しなくなる。今あるすべてが「ヒーローの守るべき存在」になります。
だから、ワヒロにおける"世界"とは"今あるすべて"なのです。そしてヒーローたちは、今あるすべてである"世界"を守るために戦うのです。
そして倫理くんはこの自分自身が持たされている概念、世界観の一端であることに対して、自覚的な振る舞いをします。ちょっとメタ的でややこしいのですが、作品内世界において、「"世界"について、あるいは"ヒーローが守るべきもの"について考え評している」ことに自覚的なのです。この点において、倫理くんは他のキャラクターよりも一段階上の自認を持っていると言っていいと思います。
そして同じ立場、同じ自認の持ち方をしているキャラクターに、唯一、浅桐真大がいます。
作品内でたびたび倫理くんと浅桐さんの類似が語られるのは、この自認の持ち方に基づいているのだと思います。
すごく極端なことを言うと、日常生活に紐づき、地に足がついた現代生活をしているワヒロ世界において、倫理くんと浅桐さんだけがFF7のラスボス戦前の規模感で毎日生活しているのです。要所要所で二人の発言だけ急にフワッとする(笑)そういう印象があるのはこれが原因だと思います。
この"世界"あるいは守るべきものに対する規模感というのは、彼らの"ヒーロー"に対する憧れが転化し、そして真摯に向き合った結果の自認の表れです。あまりにも切実で、美しいことだと思います。
ワヒロのメインストーリーは、1章で「ヒーローに出会い、ヒーローになるまで」を描き、3章から「世界を守る戦い」を描いています。
そして2章では「ヒーローが守る世界」を描いているのです。
その2章で、倫理くんはヒーローたちの敵となり戦い、ワヒロの世界観、守るべき"世界"が何なのかを見せている。世界観の根幹を担う重要なキャラクター、とはそういう意味です。
ヒーローたちの補集合であるキャラクター、「今あるすべてが世界である」の「すべて」を形づくるキャラクターである北村倫理が、世界の敵と戦い、主人公三津木慎の戦いを守る。ロマンチックで、ドラマチックで、そして切実で痛々しいリアルを伴うキャラクターだと思います。
●おわり
というわけで、北村倫理と世界観というお話でした。規模感がデカい。
規模がデカいと記事にまとめるのに苦労しまして、というかあんまりまとめきれずとっちらかってて申し訳ないです……「作品の世界観について」という感じでまた改めてかけたら良いなと思っております。
本当に倫理くんがいなかったらワヒロの複雑な世界観は描けていないし、倫理くんがいなかったらこんなにワヒロのこと一生懸命考える感じにならないと思います。
そして私は「名探偵北村倫理の永久」イベ好きすぎる芸人なのですが、このイベントが衝撃的すぎてブログ記事の2回目をしたため、それが今に至るまでブログで好き勝手書き続ける行為に繋がっているので、なんというか感慨深いというか、とにかく私の中でかなり重要人物なのです。
いつも本当にありがとう……存在してくれてありがとう……そしてハッピーバースデー!!!!!回らない寿司一緒に食べような!!
久森晃人の普通とは
久森晃人くんお誕生日おめでとう!!!!!!!!!!!!!!!
久森くんの、ところどころに滲む絶妙なオタク語彙が好きです。笑
特異な才能、特殊な来歴を持っているのに、身のこなしがどうしても地味なところ。その一見した地味さが久森くん本人の体験と体験による人格形成に由来しているところ。とてもキャッチーなキャラクターだけど、そのキャッチーさが緻密に計算されていて味わい深いキャラクターだよなあと思っております。
風雲児の総合謝罪窓口、もとい意外とヤワじゃない副長。いつも活躍ありがとう!押忍!
というところで今回は、久森くんのキーワード、"普通"を考えていこうかなという記事です。
●"普通"の多義性
久森 晃人
ヒーロー業に微塵も興味がなかったが、持って生まれた
「未来視」能力のせいでヒーローをやる羽目になった被害者。
ケンカ嫌いの常識人にも関わらず、周囲からは
「風雲児のナンバー2」と認識されており、大変迷惑をしている。
いつかきっと普通の生活に戻れると信じ、今を乗り切っている。
(公式サイトキャラクター紹介より引用)
ワヒロのキャラクターはみんな何かしらの"主人公"としての性質をモチーフに背負っていると思っているのですが、久森くんはいわゆる「巻き込まれ系主人公の定型」がモチーフになっているのではないかと思うのですよね。
そして面白いのが、あくまでも巻き込まれキャラの"定型"が"モチーフ"になっているのみであって、久森くん自身はそうした定型から大きく外れたキャラクター造詣をしているのです。この久森くんのキャラクター造詣は、なんというか「キャラクターがストーリーの大きな事象に巻き込まれることに関しては一家言ある」くらいの制作者の強い意志*1を感じます笑。
久森くんは未来視という特殊能力を持っており、本人は一般人を自称しますが、どう考えても"普通"ではない人です。しかも、イベストやサイドストーリーなどを読んでいくとわかるのですが、この"普通"ではない、という認識は「自他共に」の認識なのです。ですから、久森くんの一般人であるという自称は、自認をもって"普通"を装うために行われているのだということになります。その装いの形が、先に言った巻き込まれ系主人公の定型と面白おかしく一致している、というようなキャラ造詣なのだと思います。
そもそも、久森くんが希求する"普通"とは何なのか。
私たちはごく当たり前に「普通」という語を運用しますが、実際のところ、「普通」という言葉は非常に多義的です。
ふ‐つう【普通】
【一】[名・形動]特に変わっていないこと。ごくありふれたものであること。それがあたりまえであること。また、そのさま。
上は辞典の第一義に載っている「普通」の意味なんですが、一・二文目と三文目って意味が違うと思いませんか?
「変わったことがなくありふれている」ことと、「当たり前である」ことって状況が違うんですよね。
それで、たぶん久森くんというキャラクターにおいては、この多義性が意図的に使われていると思うんです。その制作的意図が強く感じられるのが、『復刻イルミネーションサイレントナイト』のストーリーです。
『イルミネーションサイレントナイト』はアプリリリース初期に開催されたイベントで、本筋のストーリーは、久森くんの被害者体質とその環境にあって久森くんがどういう選択をするか、彼のヒーロー性が語られる物語です。その後1周年を目前に復刻イベントが開催され、その際に追加ストーリーが公開されました。
メインストーリーも時間経過に従って進み、キャラクター各々の活躍が描かれる中、復刻追加のストーリーは、イベント開催当時よりも深くキャラクターを掘り下げる内容になっているかと思います。そんなストーリーで出てくるのが、この「木を隠すなら森の中」というフレーズです。
「木を隠すなら森」の「森」というのは、「同種のものの群がり」という意味です。同様のものがたくさん集まっている状態を、「当たり前の状態」と言い、当たり前の状態を"普通"と言います。
翻って、「変わっていないこと、ありふれていること」を指す"普通"は、このフレーズの直前に直接的に出てきます。
そして、久森くんが希求している"普通"というのは、この「ありふれている」方の"普通"なのですよね。アニメディア連載のバケツ通信*2でも詳しく描かれましたが、久森くんは彼のお母さんの志向性に強く影響されています。その能力と能力による影響を恐れている久森くんのお母さんは、息子に対して"普通"でいることを求めました。お母さんなりの防衛方法であったわけですが、この志向に影響されて、久森くんの"普通"を装うという現在の人格が形成されていきます。
余談ですがこのバケツ通信の中では、"普通"という言葉に、更に意義を付与している感じがあります。「ありふれている」が転じて、「有象無象」のような、世の中に当然あるくだらなさ、という意味合いが持たされている場面があるのです。ワヒロは本当に名もなき群衆に対しての目線が冷たい。
ともあれ、そのように「ありふれている」"普通"を希求している久森くんですが、一方で自身が"普通でない"=「ありふれていない」ことに対しての強烈な自覚もあります。
「ありふれている」"普通"は久森くんの手に入らないけれども、「当たり前である」"普通"は手に入る。そういう形で、『イルミネーションサイレントナイト』の復刻追加ストーリーは久森くんへの回答になっているようです。
「ありふれている」"普通"が「当たり前」で"普通"だった昔よりも、まったくありふれていない環境にいる今の「当たり前」"普通"を享受する。そうした解決が図られているのだと思います。
●平穏を捨つども超人にあらず
そもそも、"普通"を希求すると何度も書いているのですが、「ありふれていること」そのものには久森くんにとって価値が無いと思うのですよね。
久森くんが普通でいたいと願うのは、普通でいれば何事も起こらないと思っているからです。
これは[捨てた憧憬]のカードストーリーの一場面ですが、このカードストーリーのタイトルは「憧れた平穏」とつけられています。
平穏とは、何事もなく穏やかなさま、という意味です。
突然神学的な話をしますが、平穏とか安穏とかは、宗教的な見方で言うと幸福を示すのですよね。何事も無いということは苦しみ悲しみも無いということ。何もない境地へ至ることが、古来宗教的には「良い」とされてきました。
それに対して反論したのが「神は死んだ」でおなじみのニーチェであります。このニーチェの超人思想のお話は、矢後さんの記事を書いたときにめちゃくちゃ怯えながらちょっとだけしました。
そう、つまり矢後さんの「超人」に対して久森くんの「平穏」と、対になっているわけですね。
しかしこの対は完璧な対立ではありません。
なぜなら久森くんは、その平穏に対しての憧れを捨てているからです。しかも、捨てた理由は「超人思想的な因果」と全く関係のない、押しに弱くお人好しで自分本位になりきれないという、久森くん個人の人格的な性質に由来するものです。
久森くんというキャラクターは、矢後さんのキャラクターと概念的に対になっているものの、その超人思想に依存した対立項なのではなく、久森くん自身のモチーフ由来に表れた人格に準じた、久森晃人自身で自立したキャラクター造詣になっていることがうかがえます。
この、「対になっているがお互いに自立している」という概念の形成が本当に巧いなあと思っていて。
風雲児の二人の関係性の魅力的な部分に反映されているのだろうなと感じます。
●おわり
ということで普通じゃない久森くんの普通、というお話でした。
久森くんの周辺で言えばこの普通の話だけじゃなく、たとえば巡くん寿史くんとの「関係性の相似と友情」とかそういう視点もあるなあと思うんですが、そういうお話もまたの機会にしたいと思います。
こういう言葉の多義性をうまく弄るような設定の組み立て方はワヒロにすごく多い特徴だなと思っていて、今回久森くんの記事でこういうお話ができて良かったです!!
久森くんハッピーバースデー!!平穏なばかりではなく、楽しいことで忙しいくらいの恵まれた一日になりますように!!
『ワールドエンドヒーローズ』メインストーリーのパートボイスによる演出について
ワールドエンドヒーローズ3周年おめでとう!!!!!!!!!!!!!!!
早いものでこのブログも書き始めてから2年の月日が経ちました。
開設当初こそ、万人に読んでもらえるようなポップな(?)ブログを目指していましたが、最近はもう開き直って好き勝手の極みを書き散らかしています。今年は各キャラクターについての記事を滾々と書いているのですが、2年たってもまだ書きたいことが山盛りあるワヒロはすごい。キャラ記事一周したら別の話題をまた書きたいと思っております。ワヒロを遊び尽くす……骨の髄までな……!!!
しかもアニメディアさんでの連載やB's-LOGさんでの特集など、オフライン版に移行してなお新しいお話が読めるという環境で、関係各方面の皆様には感謝しかありません。本当にありがとうございます。ラブ・・・
今後も各媒体についていって、全力で楽しませていただこうと思っております!!なにとぞよろしくお願い申し上げます!!
ということで今回は今年通例のキャラについてではなく、別視点からメインストーリーを再考する記事です。
いま再考する、と言いましたが、今回は周年のお祝いにかこつけた完全なるおふざけ記事なので、なにもかも大目にみてください。3周年ありがとう!!ハッピー!!
それでは、この記事は、ワヒロにおける"声"の演出について考えたりここ好きしたりする記事です。
『ワールドエンドヒーローズ』はキャラクターボイスがついているタイプのソシャゲです。
各キャラクターのセリフが公式サイトやアプリに収録されており、オンライン版ではミッションに応じた報酬としてセリフが解禁される仕組みでした。オフライン版アプリでもキャラクターのページでセリフをすべて聴くことができます。
それだけではなく、ストーリー内でもボイスを聴くことができます。
昨今はフルボイス、つまりシナリオのすべてに声がついているゲームも珍しくなくなってきましたが、『ワヒロ』ではシナリオの一部分のみボイスが再生されるタイプの演出が採用されています。記事内ではパートボイスと呼称しますが、容量的な制限が大きいアプリゲームではよくある表現方法なのではないでしょうか。
パートボイスは、個別ではなく様々な内容の文章に合わせて再生されるという特性上、すべてのキャラクターに共通した汎用性の高いフレーズが採用されると思います。たとえば「笑い声」とか、「溜め息」、はいやいいえの「返事」、「相槌」みたいな感じのやつですね。なんですが、『ワヒロ』のストーリーを読んでいると、なんかすごくボイスのバラエティが豊かな気がする。もしかしたら近年のパートボイスはこんな感じが当たり前なのかもしれませんが、私はけっこう、ストーリーを読んでて「えっそんなボイスも入ってるの!?」と思うことが多かったんです。
それがずっと気になっていたので、今回、メインストーリーに収録されている全キャラ/全ボイスを分類・カウントし、どういう演出になっているのか調べてみました。調べるにあたっては、メインストーリーを周回し、人力で聞き分けを行い、手計算で計上するという非常に原始的な方法を採用しました。バカなのかな?
その集計結果がこちらです。
※一部
バカなのかな?
めちゃくちゃ軽い気持ちで始めたんですけど思いのほか、本当に想定外に収録ボイスが多くて、大変なことになりました。
本当ならここでデータを公開したいところなのですが、先述の通り独力での聞き分けなので、正確性が無くデータの詳細をお伝え出来ないことを申し訳なく思います。
上の画像は使用回数と初出話数を採った表なんですが、周回している途中で「あれ…もしかしてこの『はい』とさっきの『はい』って違うボイス…!?」ていうことが頻繁にあって、数も初出話数もまったく信用ならないデータなんですね……指揮官の皆さんは三津木慎くんの「でも」が2種類あること、ご存じでしたか……?私はこの作業をやるまで気が付きませんでした……
なので以降、こうして取ったデータをもとに感想をお話ししていくんですが、きっちり正確に検証した内容ではないということをどうぞご了承ください。中途半端ですみません……。これよりあとは、全部の文末に「まあだいたいそんな感じ、知らんけど」ってついてると思って読んでください。よろしくお願いします。
また、本来ならイベストも含めて検証すべきだと思うんですが、マジであまりにもやべえ作業量になってしまったため、今回はメインストーリーのみに絞ってお話していきます。
「絶対聞いたことあるはずなのにメインストーリーに出てないボイス」というのがけっこうあって、イベストでしか使われていないパートボイスとか、一か所だけしか使われていないボイスもかなり存在しそうです。
一応、回収したボイスを資料としてここに置いておきます。
記事を読んで「ほんまにそんなボイスあるんか?」となったときにご活用ください。
(※録画漏れもあって、全てのボイスを網羅しているわけではないです。)
※こちらの動画は資料用であり、またストーリー読破済の方のご視聴を想定しています。本編の演出のイメージを損ねたくない方は視聴に十分ご注意ください。詳しくは動画の概要欄をご参照ください。
●汎用ボイスと非汎用ボイス
ボイスを集めていると、「どうも一部は同じ台本を使っていそうだな」ということに気づきます。
たとえば「うん」「いや」「いいえ」などは共通した台本のようです。
他にも「うーん…」「はあ(溜め息)」のような感情的なものや、「でも」「だから」といった接続詞も共通してボイスがありました。
で、この汎用セリフの数がまあ多い。そこの違い分ける?っていうような細かい感情の違いも別々にボイスがあって、なんというかこだわりを感じました。最近のゲームはこのくらい当たり前なんですかね……?ちょっと比較対象が無いのでわかりませんが、私個人としてはかなりこだわって作られているという印象を受けました。
たとえば"言い淀む"というしぐさに対して、「えっと、」「え~っと」「あー…えっと…」という3段階くらいの感情違いのボイスが、全員分*1収録されているわけです。なんかすごい(小並感)。
またそもそもの採用ワード自体も豊富で、先ほど言った返事・相槌・感情表現、接続詞のほかに「攻撃ボイス」「被ダメボイス」と思わしきもの、「行くぞ」「待て」「気をつけろ」のような戦略を示すボイス、そしてお互いの名前を呼ぶ人称系のボイスが存在します。名前を呼ぶボイスに至っては、少なくとも全員2種類ずつ存在するようです。たぶん平時と戦闘時で呼び分けをしているのだと思います。
こうした汎用セリフとは別に、キャラごとの専用のパートボイスが存在します。
例えば佐海くんの「サイテー」とか、浅桐さんの「ドラマチックだ」、ヒメさんの「フランクに」のようなボイスは彼らの専用セリフです。
専用セリフはキャラクターによってかなり仕様が異なり、複数あるキャラもいればひとつもないキャラもいました。これはメインストーリーで使われていないだけ、という可能性がかなり高く、更なる検証の余地があります。
そしてこれらの中間のような、"汎用の枠内だが他のキャラと言い回しが異なる"というセリフ群も存在します。
たとえば、接続詞的な使われ方をするボイスで「だから」という汎用セリフがあるのですが、七見薔明は「だから」というワードを使わず、「ゆえに」と発話します。
浅桐真大や北村倫理など、特徴的な言い回しをするキャラクターは、汎用ボイスの中でも独特の言い回しを発揮しているようでした。こういうところにも細かいキャラクター演出の気遣いが感じられます。
●一番よく使われているボイス
Q.メインストーリー内で一番たくさん聞くボイスは何なのか?
A.浅桐真大の笑い声
これはかなり圧倒的でした。笑い声のボイスも各キャラ複数種類あるのですが、浅桐さんは全部の笑い声を合わせてメインストーリー内で77回笑っておられます。
特に「ヒッヒッヒッヒ」という、"笑い声(中)"くらいのイメージのボイスが多く、これだけで33回笑っております。ようわろとる。
でもこれ個人的には結構意外でした。浅桐さんって「ヒーッヒッヒッヒ!!」ていう高笑いのイメージが強かったんですよね。でもそっちよりも中くらいの笑い声の回数の方が多かった。あと「ハッ(笑」みたいな、一笑に付す感じのボイスも回数が多かったです。
ボイスの回数というのは出番に比例すると思います。実際主人公である慎くんの、「うん」「はい」のような相槌系のボイスもかなり量が多いです*2。でも浅桐さんの場合は、ストーリーの中枢から離れている時間もあるにもかかわらずこの回数なので、かなり頻繁に笑っていることがわかりますね。笑い声が特徴的なので印象深いんだと思っていましたが、実際に一番たくさん聞いていたとは。新たな知見を得た。
ちなみに回数が少ない方については、メインストーリー中1度しか使われてないセリフというのがたくさんあるため特徴をピックアップできませんでした。
「ボイスの種類が少ないキャラ」ということで言うと、寿史くんや柊くんが総数が少ない印象です。これは出演シーンの総時間や、シーンのシリアスさが影響しているのだと思います。全キャラで一番使用セリフ数が少ないのはユウナギちゃんです。
●一番名前を呼ばれた人
ストーリー中ではヒーローたちがお互いの名前を呼ぶ光景がよく見られますが、シナリオ内の文字としてではなく、パートボイスで名前を呼ばれた回数を計上してみたところ、一番名前を呼ばれているのは慎くんで回数は42回でした。さすが主人公といった結果。次いで光希くんが27回と二番目に多く、この二人は全キャラ総合の回数だけでなく、「単一のキャラが別のキャラの名前を呼ぶ回数」としてもお互いの名前がワンツーフィニッシュでトップの回数を誇っています*3。やはりメインストーリーは慎くんと光希くんの物語であるなあというのが数字からも感じられますね。
意外だったのが、全てのキャラが、ほかのキャラクターから複数回名前を呼ばれています。平均して約15回ずつくらいなのですが、その回数に極端な差があまりありません。登場シーンの多少によって回数がデコボコするかと思っていたのですが、全員が平等にお互いの関係性を見せる演出がされているみたいです。なんとなく配慮というか、気遣いを感じました。「『ワヒロ』はお話を読んでいるうちにキャラクター全員を好きになる」って、ストーリーを読んだ方にけっこう共通する読後感かなと思っているのですが、こうした演出上の細やかな気遣いによるものなのかもしれないなあと思いました。
ちなみに、「指揮官」と呼び掛けてくれる回数はヒメさんが15回で一番多く、次いで神ヶ原さんが14回でした。圧倒的職務上の理由。メインストーリー上では、指揮官の立ち回りはALIVE社内での交流が主体で面白いです。特に第1章あたりだと、神ヶ原さんのボイスの種類が誰よりも多くて「まさか神ヶ原さんがボイス数トップを独走するのか…!?」とすら感じてかなり面白かったです笑。その後ヒーローたちの掛け合いに追い付かれるのですが、やはり『ワヒロ』の物語は"ヒーローと指揮官(プレイヤー)の人間関係の物語"ではなく、"ヒーローたちの活躍の物語"であることがこうした数字からもうかがえますね。
あと名前といえば、矢後さんが柊くんを呼ぶときの特殊セリフがあるんですよね……!104話の戦闘シーンで「霧谷、ぶっとばせ!」と声をかけています。これなんで!?すごいびっくりした。「霧谷」と「ぶっとばせ」と別々のボイスをくっつけてるのかなとも思ったんですが、どうも一つの素材に聞こえるんですよね……矢後さんはメインストーリー中、他キャラの名前を呼ぶ回数が少ない方*4なので、余計に不思議な感じがします。
●舌打ちする人しない人
「汎用セリフだけど全員が使わない」というボイスもどうやらあるみたいです。
これは「全員ボイスがあるけどメインストーリーでは使われていない」というものとは違い、おそらくキャラクターによって"言う(ボイスがある)"と"言わない(ボイスが無い)"が分かれているセリフだと思われます。たとえば肯定のセリフを、「はい」と返事するか「ああ」と返事するか、みたいな違いですね。「ああ」と言うキャラクターには「はい」のセリフが無いわけです。
こういうセリフ群ですごく面白いな~と思ったのが「舌打ち」のボイスです。舌打ちするキャラ、しないキャラというのが明確に線引きされているんですよね。
個人的にはすごく納得できるところが多い線引きです。ただもしかしたらヒーローに関しては、舌打ちしない人でもイベストで舌打ちしてる可能性があるかもしれませんが笑。
こういう演出にもキャラクターの性格の違いが感じられますよね。ヒーローの中で舌打ちの回数が一番多いのは武居くんで、次いで矢後さんという順番でした。矢後さんは舌打ちにバリエーションがあり、2種類の舌打ちボイスがありました。
舌打ちする側に好戦的な人たちがラインナップされる中、巡くんが紛れ込んでいるのがすごくなんか、ツボでしたね……いいよね……
意外と頼城さんとかは音声としては舌打ちしてないんですね。
頼城さんは、文字としては「だが」と表現されてるところも音声では「だけど」になっていたりして、言葉遣いの品の良さが垣間見える気がします。
●笑ったり悩んだり
さっきもちょっと触れましたが、同じ"笑い声"でも種類がすごく多い。そして、その使われ方にすごくキャラクター間の差があります。浅桐さんはたくさん笑うし笑い声の種類が多いけど、逆に柊くんはメインストーリー中一回も笑い声をあげません。メインストーリーがいかに柊くんにとって過酷なものだったかをひしひしと感じる……。
全キャラで一番笑い声の種類が多いのは角来で、「ハッ」「フッ」「ククッ」「フハハ」「ハハハ!」「ギャハハ!」と6種類くらいの笑い声があります。すごい。メインストーリーの敵という立ち位置なのにこのこだわりよう。
ほかにも「フッフッフ~」と笑うキャラが複数いたり、倫理くんの「うしし」という笑い声だったり、伊勢崎くんの「わっはっは!」だったり、笑い声はキャラクターの個性がかなり演出されているボイスのひとつですね。
同様にバリエーションがあって面白かったのが悩んでいるときのボイス。「ん~」「うーん」「うう……」「うっ……」みたいな、そんなうなり声に感情乗ることある?と思って集計してて楽しかったです。声優さんって、すごい……
特によく悩んでいたのが久森くんと戸上さんで、個性を感じてなんか笑ってしまいました。悩みの方向性も違って、戸上さんは「うーん」という考え込むボイス*5が多いのですが、久森くんは「うう……」と明らかに困ってます感があって*6、性格だなあと思いました。
●773-B
わりと今回の記事の目玉的なところというか、ここをずっと検証したかったんだよというところです。
以前透野光希くんのことを書いた記事で「773-Bの自我がよくわからない」っていう話をしたのですが。
みなさんご存じの通り、透野光希くんのキャラクターボイスを担当されているのは、緒方恵美さんです。
ですが光希くんが773-Bになっている間、パートボイスを担当されるのは櫻井孝宏さん。七見薔明の声優さんです。
これが結構ずっと気になっていて、今回、七見のボイスと773-Bのボイスをじっくり聞き比べてみました。その結果、七見のパートボイスと773-Bのパートボイスは、完全に同一のものでした。聞き比べは"舌打ち""笑い声""ダメージボイス"、そして「許されまい」というセリフでできました。
つまり、光希くんが773-Bになっているあいだ、その自我は完全に"七見薔明の自我"として演出されているということがわかるわけですね。
次に、773-BのCVが切り替わるタイミングを調べてみました。
773-Bが登場するのは、メインストーリー第4章93話。ですがここの773-Bのセリフには、パートボイスが付与されていません。この登場からしばらくの間、773-Bのセリフは文字としては有っても、音声が付随しない演出が続きます。
そして初めて773-Bのセリフにパートボイスが付くのが第5章103話。慎くんと会敵、戦闘しているシーンのこのセリフ。
「そうして、元の俺になる。」
ここからです。元の俺になる、と宣言するこのセリフから、キャラクターボイスが櫻井孝宏さんになります。
このあと、一瞬光希くんの自我が表出するシーンで緒方恵美さんのボイスが使用されるものの、基本的には櫻井さんのボイスのまま戦闘が続きます。
では、いつ緒方さんのボイスに戻るのかというと、同105話「覚悟」で慎くんの名前を呼ぶシーンからです。
そして、テキスト上では"773-B"なのか、"透野光希"なのかわからないまま、ゲート前にたどり着くこのシーン、
ここでは名前の表示が無い上に息遣いだけの音声ですが、ちゃんと緒方恵美さんのボイスが使用されています。
寿史くんは光希くんの心が"透野光希"であることを見抜きましたが、正しくキャラクターボイスによってその演出がなされているんですね……
ここの演出は本当に凝っていると思う。検証して結果が得られたときは鳥肌立ちました。
何度も言うけど本当に声優さんってすごくて、同じ音声が使われているはずなのに場面によって全然違う印象の声に聞こえるんですよね……すごい技術だ……773-Bの笑い声は七見薔明の笑い声と全く同じはずなのに、なんだか光希くんが笑っているような感じに聞こえるんですよ。
光希くんだけじゃなく他のキャラクターでも、同じ音声のはずなのに場面によって受ける印象が変わって、前のストーリーに戻って聞き直し・聞き比べするっていうことが本当にたくさんありました。声の演出ってすごい。
●終わり
というわけで、ざくざくとパートボイスをまとめた感想を書いてきました。
普段物語について考える記事とかを書いているわけですが、ボイスの演出という視点で見ても練られた作品だなあ…ということに気づけてとてもうれしいです。イベストのボイスも併せて検証したい……という気持ちだけはあるのですが、ほんとに、マ~~~~~ジでこれ数えるの大変だったのでちょっとしばらく置いとこうとおもいます…笑。いつかやります、いつか……(フラグ)
さて、改めましてワヒロ3周年おめでとうございます!!!!こうやっていつまでも楽しめる作品を生み出してくださり、そして展開を続けてくださってありがとうございます。今後もたくさん楽しんでいくので、どうぞよろしくお願いします!!ハッピーアニバーサリー!!!!!
為す偽善より頼城紫暮
頼城紫暮さんお誕生日おめでとうございます!!!!!!!!!!
頼城さんのスマートなトンチキ感と、あふれる人間味が好きです。
私、宝塚劇団が好きなのですが、頼城さんにはどうもヅカっぽいケレン味が感じられてとても良いな…と思っています。
ラ・クロワの大黒柱であり、ご家業の副社長であり、いつなんどきも理想へ向かって邁進している頼城の姿はとても魅力的です。「夜明けの境界線」のガチャ*1めちゃ良かったよね。
さて今回は、そんな頼城さんが背負っているモチーフと、「人間らしさ」についてのお話です。
●"理想"は"理性"によってのみ実現する
頼城 紫暮
大企業の社長令息として副社長を務めるビジネスマン。
明るく前向きな性格で、周囲を従わせるカリスマ性を持つ。
無茶な理想を語っているように見えて、実はかなりの現実主義者。
紳士的な振る舞いが板についており、老若問わず女性からモテる。
黄金色の右目は、ミュータント化手術の副作用によるもの。
(公式サイトキャラクター紹介より引用)
頼城紫暮に与えられているモチーフは、"理想"だと思います。
しかも、人物紹介で語られている通りの、「無茶な理想」なのです。これはどういうことかというと、おおざっぱに言うと「万人が目指す"より良さ"」とでも言ったらいいでしょうか。「みんな」にとってのより良い世界、誰もが幸せな世界、そういうものを指して"理想"と言っているのだと思います。
前回佐海くんのお話をした記事で、みんなにとっての正義はこれから考えていくものだ、ということにちらっと触れたんですが、頼城さんが目指している理想はまさに「"みんなにとっての正義"がある世界」と言えそうです。そしてそれを目指すことで、世界はより良くなっていくのだ、と信じているのです。
こう考えると、佐海くんが頼城さんに対して憧れ・崇敬に近い感情を持つのは彼自身のキャラクターとしてのモチーフに由来しており、とても自然に思えます。
一方で、人物紹介でも「無茶な」とついている通り、この理想は一見「実現不可能」なもの、荒唐無稽な絵物語のように思えます。この"より良い世界"というのは、人々や社会の善性を強く信頼することにより成り立っている概念のように見えるからです。こう言うと乱暴ですが、わかりやすく言えばとても性善説っぽいのです。最終的には人類はより良きものを目指すはずだ、という、純粋な信頼がある"ように見える"わけですね。
しかし現実はそうではない。すべての人間が善性を持ち合わせているわけではないことを、我々は体験として知っています。「良き理想」が「きれいごと」として唾棄されてしまうのは、その実現可能性が限りなく低いことを知っているからです。
メインストーリー内で、頼城さんは彼の父親の言葉を借りて世の中を語ります。曰く、
「世界が変わるのは、時間がかかる。だが、必ず変わる。」
このフレーズは、わかりやすく頼城さん本人のスタンスを表しています。
この台詞が意味するところは、「頼城さんは現在の世の中を、良き世界へ変わりつつある途中である」と認識しているということです。これはすごく、言い方が悪いですが、都合の良い考え方だと思います。「現在の理想にとっての不都合は、変容の過程にあるからであり、やがては"より良い"にたどり着く」というふうに、現実を妥協して綺麗事に沿わせてしまうことができるからです。
だから表面的に、あくまでも表面だけをみると、頼城紫暮という人物像は、ともすれば偽善的に見えます。実際、ワヒロを読み始めた初期の段階では、私自身も頼城さんに多少の鼻持ちならなさを感じていました*2。
頼城さんのボイス自分についてのやつで、「富や名声より大事なものがある」って言ってるやつ、私最初はっきり言って鼻持ちならないやつだなと思ったんですけど(ごめんね)、頼城さん本人がそのことを自覚している節があるなあと感じる それはなぜかというと積極的に北村倫理と接触しないからですね…
— Kiki (@kiki8138game) 2019年11月5日
上は2年前当時の私のツイートなんですが、これはアプリに収録されているボイスのうち「自分の話題3」に言及したものです。
「富や名声より、人とのつながりを大切にしている。人の気持ちを買うことはできないからな。」
この台詞、発言する人の地位によって印象が大きく変わると思いませんか?
私はかなりひねくれているので、最初に聞いたときは「そりゃあ富と名声を持っている人はそう言うでしょうね」と思いました。これは「買うことのできるものは手に入る人間」の価値観じゃないか、って。
実際、頼城紫暮という人間は、ハイソサイエティの家庭で何不自由なく育ち、才能も有り、生育環境に欠落のなさそうな人物です。「恵まれた人」だといっていいでしょう。ワヒロにおいては、世界の「底」を自称する北村倫理というキャラクターがいますので、余計に頼城さんの「申し分ない不自由の無さ」が恵まれて見えます。
才色兼備な社長令息が性善説めいた"より良き世界"を目指し、美辞を宣うことに感じる"鼻持ちならなさ"。それはおそらく、「世界はそうならないことを"知らない"のだろう」という憤りです。
恵まれたあなたは、恵まれない人のどうしようもなさを知らないのではありませんか?あるいは、知ってはいても、体感していないからわからないのではないですか?だから、どうしようもないことなんてない、より良くできる、と言ってしまえるのでしょう?という感情。それが、相手が"傲慢"だという印象を持たせているのだと思います。
けれど、物語をよく読んでいくと、頼城紫暮は決して世の理不尽さを「わからない」わけではない、ということがわかります。日本語不自由すぎんか?つまり、頼城紫暮は世の理不尽や悪徳に無理解ではないのです。
キャラクター紹介に書いてある通り、彼は現実主義者なのです。
それはストーリーで解説されるような明解な描写ではありませんが、頼城さんの出番の端々で感じることができます。特に、矢後さんが関わるシーンでは顕著に見られます。私が最初にハッとしたのは、これまたボイスの「他校の話題3」、風雲児高校についての所感を述べているボイスです。
「風雲児か……風雲児とは、いずれ全面戦争をせねばならんな……!ラ・クロワの校舎の壁面に、究極にダサい四字熟語を書き逃げることは、尊重すべき価値観という美辞の域を超えた、侵害行為なのでな……!」
すっごい苛烈やん。なに?
ご覧の通り、頼城紫暮という人物は実際のところ、全然ラブ&ピースの人ではありません。私個人の印象では、相当に排他的な人なのではないかと思っています。そもそも頼城さんのような恵まれた生まれ育ちの人は、環境に恵まれている分、環境への期待値が高いので、排他的になりやすいと思うんですよね。周囲の優秀さを無意識に期待する分、そうでなかった時の落胆が大きいというか……だからこういう、頼城紫暮の予想外の苛烈さって、意外と説得力のある人物造詣だなあと思ったりします。
で、このボイスで問題なのは、文字を大きくした部分。
"尊重すべき価値観という美辞"という認識を、頼城紫暮は自覚しているというところです。
これはつまり、頼城紫暮は、「綺麗事が綺麗事にすぎない」と自覚しているという事実を示しています。多様な価値観が尊重されなければならない、という理念は、頼城紫暮にとって美辞に過ぎないわけです。
そのうえで、その「美辞」を、現実に実行しようとしている。
価値観はすべて平等に尊重されるべきだが、それはときにぶつかり、争いを生む、という理不尽を知らないわけでも、わかっていないわけでもない。わかっていて、その綺麗事は彼の本心ではなくて、その上でなお彼は「美辞」を現実にしようとしているのです。
「為さぬ善より為す偽善」なんてネットミームがありますが、頼城さんのこれは為す偽善なんてものではない、それよりももっと複雑で、はるかに強固な意志を含有する"理想"です。
これに気づいたときに、私の頼城さんへの印象は180度変わりました。彼は純粋な慈愛の人だとか、生まれ育ちに胡坐をかいたご令息などでは全くない。というよりは、どちらかというと"とても困難な人"寄りの印象になってしまいました。
人間らしい美醜入り混じった心根を抑えて、なおより良き世界を標榜するために、理性をもって慈愛を演じている。ものすごく人間くさい、愛すべき困難な人だと思うのです。
●人間らしさとは何か
頼城さんの困難さを「人間らしい」「人間くさい」と感じるのはなんなのか。それはどうしようもない自己矛盾とか、好き嫌いのわかりやすさとかもあるのですが、個人的に一番思うのは、"頼城紫暮は未必の悪意を持っている"というところなのです。
最初のブログ記事書いた時からずっと、「ワヒロは『人間には醜いところがあるのだ』てことを信念をもって描こうとしてるのでは」って言ってるんだけど、人の醜さ(それは必ずしも本人の明確な決断を伴う悪意ではない)が、主要キャラのヒーロー達にもあるのが凄いところで、
— Kiki (@kiki8138game) 2020年6月28日
ワールドエンドヒーローズの物語は、人間の醜さを臆することなく描きます。名前の見えない悪意、意志を伴わない悪意、強固な意志を伴う悪意、憎悪、嫉妬、愛執、エトセトラ。
そして、これらの悪意と戦うだけでなく、メインキャラクターたちもまた、そうした悪意の芽を持ち合わせています。ワヒロにおいて、登場人物は「いつも正しい*3わけではない」。敵も、味方も、そうなのです。
頼城さんの困難さというのは、そうした「誰しもが持ち得る悪意」に直結しかねない苛烈さと、その苛烈さが「目指す綺麗事の実現には合わない」と判断できる理性を、同時に持ち合わせていることに由来すると思うんです。
頼城紫暮のサイドストーリーでは、こうした彼の人間性、「神でも悪魔でもなく人間である頼城紫暮」のエピソードが描かれます。
人間だから、理性だけでいることはできない。
わたしたちは、神様にはなれない。
人間だから、感情だけでいることもできない。
わたしたちは、悪魔にはならない。
頼城紫暮の人間くささは、こういうからくりになっているんだと思うんですね。
そう思うと、誰よりも人間らしい頼城さんが、ラ・クロワ学苑の大黒柱であることも、非常に意義深く感じられます。ラ・クロワのミュータント技術は、特別な星の力でもなく、技術のロマンでもなく、ただ人が人として掴んだ力であるわけです。
巡くんのモチーフが医療であることも、「医療」が人を人のあるがままに導く術であるからだとも言えそうです。それに対立するのが、人を機械化する技術を持った浅桐さんですね。
そして、頼城紫暮が何よりも"人間らしく"描かれている、その証左になると思うのが、メインストーリーでの彼の戦いです。
頼城紫暮の最後の戦いの相手は、未知の災厄であるイーターでも、人造人間のアンノウンズでも、運命であるワールド・コードでもありません。
人間なのです。
最終決戦での頼城VS室媛の戦いは、「普段彼が社会の中で理想のために勝ち得ていること」と変わりない戦いです。
やはりワヒロの物語は、どう戦うかということが即ち、どう生きるかに結びつく物語なのだと思わされます。
人の悪意と人の愛に立ち向かい、ときに本性を見せつつも、強固な意志の、理性と感情の力を持って打ち倒す。
どこまでも人間である頼城紫暮は、どこまでも人間と対峙しなければならないのです。
●終わり
頼城紫暮の人間らしさ、その困難さがすごく好きで、記事にしたいなとずっと思ってたので書けてうれしいです…ヤッター!
こういう人間くささというか、人の醜さを描くことから逃げない、そしてそれでも希望を描き切るというワヒロの物語としてのスタンスにいつも感動しているのですが、頼城紫暮というキャラクターはその物語の味を濃縮したようなキャラクターだよなあと思っております。
人間らしさ、人間くささ、と言えども、その強烈な希望と理想への拘りと実行力は頼城さん個人の、頼城さんならではの資質であり、神でも悪魔でもなく「頼城紫暮」である所以なのでしょう。めちゃくちゃ良い…好きだ……(急に失う語彙)
頼城さんハッピーバースデー!!!!!気持ちだけじゃなく満たされた誕生日をどうぞお過ごしください!!!!