ヤッターオタクたのしい!!

ワーーーーイ!!

映画『CATS』に寄せて。〝公式が解釈違い〟を起こした厄介オタクのお気持ちブログ

 

 この記事は、not for me作品をわざわざ食いに行って案の定口に合わなかったことを愚痴るだけの、厄介オタクのお気持ち表明ブログです。

 


●経緯

 10年以上もののCATSオタクこと私である。

 

 世の中に「CATSオタク」なるものが存在するのかというところから疑問に思う方もいらっしゃるかもしれないが、オタクはどんなところにも生息するのです。何をもってどのようなオタクと判じるかというところは難しいですが、こちらのブログでは私のことはアニメ・マンガ系のオタクと同様の感じだと認識して頂ければ幸いです。いわゆる「熱烈なファン」ではあるけど、性質としてはやっぱり「オタ」。

 

 さてそもそも、『CATS』と言えば、誰もがご存じのロンドン発名作ミュージカルです。
 オリジナリティ溢れる演出と豊かで上質な音楽によって人気を博し、全世界で今もなお上演され続けています。日本では劇団四季が国内各地でロングラン公演を続けており、現在は大井町の専用劇場で上演中です。
 私は劇団四季の地方公演ではじめてCATSを観劇し、五反田のころに劇場への通い癖をつけ、横浜のころは週一くらいの頻度でCATSを延々と観ていた四季派のオタクです。あとはそのほかの地方公演に遠征したり、ロンドン版やアメリカ版やDVD版を見たり、各国各言語のCDでナンバーの聴き比べをしたり、毛色で猫の名前を言えるようになったり、各バージョンの猫たちについてキャラクター的に考察したり妄想したりたまに二次創作したり、そんな感じでオタク活動をしてきました。なにしろ約30年前の初演時から完結・独立している、単一作品のオタクなので、もうこれ以上の展開がないわけです。同じストーリー同じ演出をくり返しくり返しスルメを噛むように咀嚼し、演者の細かい演技の違いやたまに演出変更があると「味がある!」つって喜び舞い踊る、そんな感じのオタク活動なわけです。いや元の噛みつくしたスルメも、それはそれで噛んでも噛んでも永遠に味がある最高級のスルメなわけですけれども!演者とか演出変更とかは七味マヨネーズみたいなもんだから。

 

 そんな限界ジャンルCATSに「完全新作!」の一報が突然舞い込んできました。映画化!!オリジナル脚本!!監督は『レ・ミゼラブル』のトム・フーパー!!CATSサウンドの産みの親A.L.ウェバーやスティーヴンスピルバーグも参加!!

 

 びっくりするほど豪華!!!!

 

 びっくりするほどド地雷の匂いしかしねえ!!!!

 

 残念ながら「わあ~あたらしいCATSだ!たのしみ!」となれるほど穏やかなオタク人生を歩んできたわけではなく、頭によぎるのは〝解釈違い〟の4文字です。
 オタクと解釈、それは永遠のテーマ、悩みであり火種。長いオタク活動と動かざるごと山の如しな界隈ゆえ、あたため続けた解釈も自分勝手に拗らせた10年ものです。悲しみの予感しかない。

 

 不穏な胸中のまま月日がたち、SNS隆盛最盛期の昨今、海外で当の映画が封切られるとたちまち評判が流れてきます。目にする「酷評」の文字列。アー……(目から光が消える)
 ネタバレ回避のため事前に批評は一切読まなかったので、ただただ「ヒドイ」という前評判だけが蓄積されていく状況。死んでいく心。だいすきな作品が〝駄作〟という評判で後世に残ってしまう……つらい……でも最高に褒め称えられる作品が自分と解釈違いだったらそれはもっとつらい……いっそ駄作として誰からも忘れさられ、なかったことにならないだろうか……覚悟するけど覚悟よりもっとひどかったらどうしよう……そんな鬱々とした心で前売り券を買い、封切り当日(平日)を開けるため必死にスケジューリングし、初回ドセンの席を予約。字幕・吹替の連続鑑賞を予定。疲弊する情緒。
 こうまで煩悶するなら最初から見なければいいのに……と自分でも思いますが、見ないという選択肢はありません。なぜなら限界ジャンルだから……もうこの先新しい展開なんてないから……解釈違いでアレルギーが起こりアナフィラキシーで死んだとしても、この世のあらゆるCATSを人生に取り入れたいから……オタク、厄介……

 

 以上のような経緯で本日、2020年1月24日、映画『CATS』日本封切りの日を迎えました。

 


●結論を先に言う

 期待通り、本当に期待通りにがっかりした。


 ここからは映画の悪口をひたすら言っていく感じなので、そういうのが苦手な方はご注意ください。またネタバレです。


 いやこんなに予想した通りの解釈違いが起こると逆に面白くなってくる。ほんとうにつらい。(情緒がガタガタ)
 なにがつらいって、A.L.ウェバーが関わっていることです。原作舞台の作曲家がこの映画を『CATS』として世に出していいと判断したという事実がしんどい。こんな絵に描いたような〝公式との解釈違い〟があるだろうか……せめて「トム・フーパーによる解釈の合わねえ二次創作を見せられた」と思っていたかった……


※2021/10/7追記

 シネマトゥデイにこのような記事が掲載されました。

www.cinematoday.jp

 A.L.ウェバー、納得して世に出したわけではなかった!
 というかめちゃ批判していた!!
 というわけで、事実この映画は「トムフーパーによる解釈の合わねえ二次創作」であることがあきらかになりました。
 事実誤認を促す記載をしてしまい申し訳ありませんでした。
(追記ここまで)

 


●〝エンタメの文脈〟

 私がいちばんこの映画にやってほしくなかったこと、それは「『CATS』をストーリー化してエンタメの文脈に落とし込む」ことでした。
 〝エンタメの文脈〟とはつまり、「主人公がいて、事件が起こり、スペクタクルやロマンスが発生し、主人公のはたらきによって事件が解決し、感動が起きるという一連の流れ」のこと。エンタメの文脈に嵌ったCATS、私がいちばん見たくなかったものでした。

 

 『CATS』という作品は、詩がもとになっています。
 T.S.エリオットという詩人の『ポッサムおじさんの猫とつき合う法』という詩集が原案にあたります。詩集なので、通して理路整然としたストーリーが存在するわけではありません。1つの詩に1つのテーマがあり、作品としての美があり、その集合としての詩集という表現にも作品に共通したテーマ、表現されるべきものがある。詩集とはそういうものです。
 その原案を踏襲し、CATSという作品はある種オムニバスのような雰囲気で展開していきます。次々に出て来る猫のキャラクター、それを表現する楽曲。そのすべてに根を張る全体としてのテーマがあり、そのテーマが様々な描かれ方を通して観客に感動を与えています。もちろんクライマックスやエンディングはありますが、あくまでもそれは『CATS』という作品の幹ではなく、一部にすぎないのです。
 そのような作品なので、『CATS』は少々人を選ぶ向きがあります。端的に言うとわかりにくい。何を語っているか、人によってとらえ方が全く違う。この点が、私が『CATS』の最も魅力的だと考える特長です。わかりにくさは作品の弱点でもありますが、だからこそ、他に類を見ない感動を呼ぶのだと思います。
 この、私が〝何にも代えがたい良さだと思っている特長〟が「エンタメ化」によって消されてしまうのではないか――映画化で一番危惧していたのはここでした。
 なにかひとつの〝わかりやすい物語〟に収束させられ、解釈の余地が奪われてしまうのではないか。たとえば。

 

 猫の群像劇が、だれか1匹の冒険物語にされるのではないか。
 「天上をめざす」という全体のテーマに、バトル要素を蛇足するんじゃないか。
 元の舞台にはない、1対1のロマンスが挿入されるのではないか。
 天上に上る猫が、「主役猫の活躍によって」選ばれるのではないか。 

 

 ……トム・フーパー、これぜんぶやりおった。

 

 もうこちらとしては「トム・フーパーがかんがえたさいきょうのキャッツ」を111分辛抱して見るしかない。共感の余地、一切なし。
 いやわかるよ。わかる。映画もエンタメですから、誰でもわかる誰でも感動するストーリーの構築は、言ってみればステータス、監督の才能は素晴らしいものでしょう。
 でもそれ、CATSじゃなくて良くね??????
 〝そうじゃない〟、ストーリーが明確でないことで感動を呼んでいるCATSを、わざわざストーリーの型に嵌め込む意味、なんかあります???????

 

<読み飛ばして構いません>
 それでここからはオタクの恨み節になりますが、主役がヴィクトリアなのなんで?百歩譲ってシラバブじゃないの?いや、「わたしジェリクルじゃないから……居場所が無いの……ウジウジ」を主役の悩みとして描きたいから『シラバブ』という個性的な名前じゃなく、人間の名前にもある『ヴィクトリア』が良かったんだよねわかるよ?でもその〝主役の悩み〟そのものがいらないんだよ。だって元の舞台にそんなものないもん。全員がジェリクルとして胸を張っていても作品は成立するし、それで舞台は成功してるんだから。悩める主人公が観客の共感を呼ぶ装置なのはわかりますが、それって安易に過ぎるしやっぱりCATSでやる必然性ないよね。
<ここまで読み飛ばして構いません>

 

 まとめて言うと、作品の方向性自体が公式と解釈違いでつらいという話です。本当に、いろんな「こうだったらやだな」が全部実現してしまった……悪い意味で期待を裏切らない映画になってしまいました。心の予防線、大活躍した。しないでほしかった。

 


●エンタメならエンタメをやりきれよ

 なんだかんだといって興行収入は大事だし、オタクのための映画じゃないんだからつべこべ言うなよと言われたらそらそう。
 でもこの映画、エンタメとして割り切って見るにもストーリーがクソすぎる。

 

映画CATSあらすじ
 ジェリクルキャッツ《という特別な猫たち》が集うゴミ捨て場《に捨てられたふつうの子猫ヴィクトリアが》、天上に上るただ一匹の猫を決める舞踏会に立ち会い、《自分の人生を歌にして歌唱バトルする》様々な猫たちに出会う。しかし《自分が天上に上る猫に選ばれようと目論む》マキャヴィティにより、天上に上る猫を決めるリーダー・長老デュトロノミー《と他のバトル参加者たち》が攫われてしまう。デュトロノミーは《ヴィクトリアの応援によって勇気づけられた》マジシャン猫ミストフェリーズのマジックによって無事戻ってくる。《他の参加者たちは突然一念発起し自力で帰ってくる。》ところでグリザベラという嫌われ猫がいたが、《ヴィクトリアはグリザベラが気になり自らの身の上話を歌って誰かに必要とされたいという願いを打ち明ける。》誘拐騒動のあと、グリザベラは《ヴィクトリアによってジェリクルたちの中に招き入れられ、》自身の歌を涙ながらに歌う。《それに感動したデュトロノミーはグリザベラこそ天上へ昇る資格があるとして彼女を選び、》グリザベラは天上へ旅立つ。《活躍したヴィクトリアは、デュトロノミーから「あなたは確かにジェリクルだ」と認められ、居場所を得たのだった。》

 

 要するにヴィクトリア主役のヒーローものなのですが、特にヴィクトリアの成長が描かれるということはなく、ヴィクトリアは徹頭徹尾、無垢で無邪気な傍観者としてそこに存在しています。
 彼女の活躍は大きくふたつ、「ミストフェリーズを励ましたこと」「グリザベラを招き入れたこと」。前者に関してはヴィクトリアでなければならない理由はない。ヴィクトリアがミストフェリーズを信頼する根拠も特にない。ミストフェリーズが新入りに気を配る優しい猫として描かれヴィクトリアに惹かれる描写があったので、ロマンス的な要素として入れたのか?と思いますが、このふたりが惹かれ合うきっかけも理由もよくわからない。ロマンスとしての決着もないので「ふわっとなんかラブっぽい雰囲気」で終わります。じゃあ別に要らないんじゃね?と思う。原作でもカップルではないですし。
 グリザベラに関しては、ヴィクトリアが捨て猫で、居場所が無いという悩みを持ち、その悩みがグリザベラに共鳴したという感じで描かれていきます。この悩みについてヴィクトリアが歌を歌うのですがそれがねー。もう。急にレミゼびっくりした。違う映画はじまったかと思った。
 このヴィクトリアの曲、映画のための新曲なんですね。曲はA.L.ウェバーが、歌詞はテイラースウィフトが手掛けているのですが(なんでだよ)すっっっっっごい浮いてる。違和感しかない。
 もうおわかりかと思いますが、上のあらすじの《》内は映画オリジナルのストーリーです。つまり、大筋は原作に沿うように、ヒーローストーリーの要素を無理やりねじこんだわけですね。だからストーリーがブツ切れたりご都合主義になったりして、「結局なんなの?何の話なの?」ってなってしまっている。


 やるならちゃんとやれ!!!!中途半端にすな!!!!

 CATSを単なるヒーローストーリーになんてしてほしくないよ!?してほしくないけど、そうするって決めたんだったらきっちりやれ!!良い物語をつくれ!!中途半端にガワだけ原作に寄せて中身は監督の妄想爆発とかいちばんオタクつらいやつだから!!!!

 

 ガワが原作に寄っているから、ジェニエニドッツやバストファージョーンズなどは(ひどい改悪があるとはいえ)根本的にはエリオットの詩に準じて、〝猫の理屈〟で動いています。彼らの歌の行動は、論理的ではない猫の信念に従った行動です。でも、主人公/ヒーローという役をストーリーのために与えられたヴィクトリアだけ、〝人間の理屈〟で動いている。だからヴィクトリアの歌だけ、すごく人間臭くて浮いているのです。たぶんそっちのほうがトム・フーパーは好きなんだと思う。じゃあもうぜんぶ人間に寄せろや。他人の看板で適当なことすんなマジで。
 同様に、マキャヴィティに悪役というストーリー上の役割を与えるために、「天上に昇りたい」という彼の目的を後付けしたことで、マキャビティはひどく歪な小悪党に成り下がってしまいました。すべての犯罪の黒幕とか歌われるくせに、勝ちたいがゆえにバトル相手を攫って閉じ込めるというチンケなイカサマ。攫った相手はご都合展開のせいで自力で脱出してきたことになってるし(攫った意味無え~)。なーにがナポレオンオブクライムじゃ。デュトロノミーに「インチキ」言われとるがな。

 

 原作のガワに無理やりオリジナルのストーリーを詰め込もうとしたせいで、キャラクターの行動原理が崩れ、その結果描こうとしたストーリーが不完全でくだらないものになっている。単なるストーリーものとしてエンタメ消費されるのも嫌だけどそれはオタクのわがままだから我慢するとしても、そのストーリーがクソすぎるのは本当につらい。それならストーリー仕立てにしないでほしかった。
 どうしてもストーリーに仕立てたいなら、原作ぶち壊してでもそれ相応のストーリーを用意して欲しい。推しジャンルの映画がふつうに作品としてつまらないの、悲しみが深すぎる。

 

 ストーリーのいびつさが「質の悪い子ども向け作品みたいなテキトー脚本だな……」と思いながら映画を見ていたのですが、鑑賞後パンフレットを買って読んだところ、トム・フーパー監督が「10歳のときにCATSを観て感動した、この作品はその10歳の自分に向けてつくったようなもの」的なことを述べておられました。ああ、この作品は10歳のトムの妄想をかたちにした、ほんとうに「トム・フーパートム・フーパーによるトム・フーパーのための映画」なんだなあ…と思いせつなくなりました。そういう作品があったっていいけど、でもそういう自己満足は他の作品の看板借りずに自分のオリジナルでやってほしいです。それかせめて公式というか原作が関わっていなかったら良かった。

 


●品が無え!!!!

 これは私が特に四季版が好きというのがあるのかもしれないんですが、もう振り付けがほんとに品が無かった。鑑賞し終わってから見た海外レビューの中に「キワモノAVかよ」的な(※意訳)酷い批評があったのですが「ああ……ウン……」と納得してしまうレベル。
 おそらくダンスに交尾の暗喩を込めていたり、マタタビにクスリをオーバーラップさせて風刺的な表現をしたかったのだろうと推測しますが、完全に全部裏目に出てる。振り付けの方はHIPHOP・ストリートダンスの方らしいんですが、これはダンスジャンルの差とかじゃなくて伝え方の問題だと思う。CATSが上品であるべきと思ってるわけではありません。客にも作品にもリスペクトねえよなって話です。伝える側の「伝えたい」ばっかりで受け取る側のこと見てない。この品性下劣な振り付けがCATSのダンスとして広まってしまうのは誠に臍を嚙む思いです。元の舞台の振り付けも、四季のアレンジされた振り付けも、もっと美しくて情感豊かだから……みんなそっちも観て……

 

<読み飛ばして構いません>
 これは完全にいちオタクのたわごとでしかないのですが、「天上に昇る猫を選ぶ際にみんながダンスをする」というのは「宗教儀式」のオマージュなんだろうと解釈していました。A.L.ウェバーは『ジーザス・クライスト・スーパースター』のような作品も手掛けているので、宗教的な側面が見えるのもうなずけるなと思ってました。同じ舞台同じ場面をこの映画の製作者が見ると、猫の盛り場に見えてたんだなァと思うと、すげえやりきれねえ……って感じです。
<ここまで読み飛ばして構いません>

 


●日本語版はどうなのか

 すごいダメだった。

 

 SNSで、「内容は酷評されてるんだから日本では吹替版を推して宣伝したほうがいい、豪華だから」という感じのことをおっしゃってる方がいたのですがごめんなさい。実際に字幕、吹替を両方見た上での感想です。
 どうしてもどんな駄作であっても絶対に映画CATSを見るのだと心に決めているのであれば、絶対に字幕版にして。
 なぜなら、日本語吹替版、日本語が聞き取れないからです。

 

 歌詞が・・・・・・わるすぎる・・・・・・・・・

 

 この「歌詞が悪い」は、「誤訳だ」「ニュアンスの汲み取りができていない」「日本語文法がおかしい」などのよく海外吹替で話題になる「悪い」ではなく、「耳に正しく入ってこない」という意味です。
 メロディに対して音を詰め込み過ぎていたり、メロディが切れるところが単語が切れるところと合っていなかったり、テンポが速いところで似たような音を連続して使っていたり、とにかく聞き取りにくさが尋常じゃない。特に語の切れとメロディの切れがずれてるというのが非常に深刻で、「メモリー」のようなゆったりした曲でもそれが起こっているので聞き間違いがひどい。たとえば「訪れる」と歌いたいところを、「おと/ずれる」とメロディが切れているので「音ズレる」と聞き間違う感じです。それが10分に一回起こる。常に聴覚に意識を持っていくため鑑賞のストレスがすごい。
 私いままで、「ミュージカルって歌詞が聞き取れないから見るのしんどい」という感想が理解できなかったんですが、それは四季や東宝の美しく聞きやすい日本語と訓練された発声に甘やかされていたのだと気付かされました。日本語が日本語として理解できなくなる歌って存在するんだ……

 

 あと、韻の踏み方がダッセエ。
 歌詞にこだわろうとしていることは伝わるんです。元の英語の歌詞が詩を基にしたものだから、言葉遊びや韻が多用されていてユニーク。それを日本語でも表現しようとしている、という制作者の気持ちは伝わります。気持ちは。
 でもそれならちゃんとやってほしい。詩人を雇うとか思い切って七五調に変えるとかやり様いくらでもあるでしょ。そもそも日本語は音韻のしくみが英語と違うから、英語みたいな韻を日本語で美しく踏もうというのはムリです。やりたいなら言葉数とかリズムとか日本語の韻のルールでやるしかないと思います。もうね、韻踏もうとしてるのはわかるんだけどそれが不完全だからすごいモヤモヤする。ポエトリーラップじゃねえんだぞ。
 バストファージョーンズとか、吹替の声がロバートだからなのか、ダサい韻がずっと親父ギャグスベってるみたいになってて共感性羞恥でいたたまれなかった。

 

 声自体に関して言えば、声優さんやベテラン俳優陣のみなさんの声は自然で演技も心にくるものがありました。アーティストのみなさんは、「アーティストさんが演技して歌ってる」以外のなにものでもありませんでした。その猫の声として聞こえるというより、終始「〇〇さんがこの猫を演じるとこうです」という感じ。アーティストさんのファンは演技してる推しの声が聞けて嬉しいかもしれませんが、当方CATSのオタクなので「じゃあべつにこの人じゃなくていい」という感じでした。

 

 私、普段は洋画の吹替が好きなオタクで、結構吹替酷評されたりしてる作品でも吹替版を好んで見ているのですが、ほかならぬ推しジャンルの作品でこんなに吹替版がnot for meで悲しきこと限りなしです……
 訳にしろキャストさんにしろ、制作者の方針が解釈違いなんだと思います。こんなところまでも……

 

 ちなみに字幕の出来については、ちょっと私にはわかりかねます…私、英語も日本語もCATSのナンバー全部歌詞暗記しているので、字幕ほとんど見てなかったから……たぶんそこまでひどい訳とかはなかった気もしますが、他のいろんなことに打ちのめされててそれどころじゃなかったので曖昧です。

 


●キャラクターの改悪が悲しい

 ここまでも一貫してオタクのたわごとで悪口を言ってきたわけですが、ここからはより〝CATSをそこまで愛していない人にはどうでもいい内容〟です。

 

 さっきもストーリーのためのキャラ改変がつらいという話をしましたが、トム・フーパー、物語と直接関係ないところもぐいぐい改悪してくる。圧が強い。
 それがあまりにも悲しかったので、このキャラクターはこんなやつではないんだよ!!と声高に叫んでおきます。

 

〇ジェニエニドッツ
 なんでサイコパスみたいになってしまったん???????
 映画では現状に不満があるショーマン志望のだらしないサイコパスおばさんとして描かれてしまったジェニエニドッツですが、原作では「家の清潔と秩序を守るため、礼儀知らずのネズミを躾け、厄介なゴキブリに職を与える家の裏女主人」のようなキャラクター像で描かれています。
 グロ注意すぎる改悪に混乱して、涙目で公演パンフレットも原作の歌詞も原案の詩も全部読み返しましたが、「育て上げたネズミやゴキブリを食べる」という描写はどこにも存在していませんでした。発想がマジでサイコパスだし、人型の猫が人型のネズミや虫を食べる映像ほんとやだ。
 なんで?元の設定のままで充分コミカルに演出できたと思う。ジェニエニドッツ大好きだから本当に悲しい。

 

〇ラム・タム・タガー
 タガーは従来のイメージよりもだいぶ若いキャラクターになっていました。タガーは以前も時代に合わせてイメチェンした例があり、その時代時代のロックスターをオマージュしているので、今回のキャラチェンも「今のロックスターといえばこんな感じなんだな…」と納得できました。
 でもなんでタガーだけマキャヴィティに攫われなかったの?参加者じゃないのに勝手に歌ってたの?参加者なのに一匹だけスルーされてたの?
 ……舞台の方では、ラム・タム・タガーはマンカストラップと同様語り手を担うシーンがあり、比較的メインのキャラクターとして出てきます。しかし今回その語り手の部分をヴィクトリアに奪われてしまったため、タガーはほぼ持ち歌シーンのみ、スタメン落ち的な位置づけになってしまいました。おそらくそのせいで、元の立ち位置が影響してその後のシーンにも出続けることになり、「タガーはいるけど役割が無い」「マキャヴィティスルー」みたいな状況に陥ってしまったのだと思われます。詰めが甘いんだよ!!!ミストフェリーズの歌(舞台では語り手になる曲)で申し訳程度に上ハモ担当してたけど、映画内では因果関係ないから突拍子も無くてもう、やることなすこと全部裏目!!!

 

〇バストファージョーンズ
 「ロンドンタウンでクラブに入り浸る紳士様」という階級社会への皮肉たっぷりなキャラクターを、どうやったらあそこまで意地汚い下品な猫に改悪できるのか……そしてこの改悪になんの意味があるのか……
 原案では「猫のブランメル」とさえ言われてるんですよ!粋で気障!

 

〇長老デュトロノミー
 ポリコレへの過剰な配慮のために男性から女性に変わってしまった。猫の長老が雄だからって現代的でないとは思わねえよ!猫だわ!!
 それだけでなく非常に権威的で、マキャヴィティに対して「天上へは絶対に行かせない」などと言う。めちゃめちゃ解釈違いでつらい。舞台ではデュトロノミーがグリザベラを「you」と指名するシーンはなく、グリザベラはみんなに受け入れられて天上へ導かれていく――という演出がなされているため、デュトロノミーがここまで偉そうに感じることはないです。多様性への配慮で性別が変わるのに、悪と思われる存在を一存で排除することは許されるの……?

 

〇ミストフェリーズ
ミストフェリーズもストーリー上の役割を押し付けられ、最近のアメリカンヒーローにありがちなナードっぽいシャイな少年にされてしまいました。特に吹替の歌詞が完全にミストフェリーズ応援歌みたいになっててつらい。「こんなに利口な猫は見たことがない」が歌詞のサビになるほどのスマートな猫です。

 

〇シラバブ
舞台版ではグリザベラの導き手となる一番若い子猫。そのポジションをヴィクトリアに奪われてしまい、映画ではむしろグリザベラを威嚇するような素振りさえ見せていて悲しいです……完全に映画のエンタメ化による一番の被害者。

 

〇コリコパット
 どこにいた???毛並み変わった???

 

プラトーソクラテス
 俺たちはすげえアーティストも起用できるぜ自慢は他の映画でやって。


●映像とパフォーマンスはすごい

 ここまで延々と悪口を言ってきましたが、映像技術は本当にすごいです。猫たちの耳も尻尾も常に動いているし、顔はたまに浮いたような違和感があるけどほとんどは表情に合わせてキレイにCGが動く。セットも豪華で本当に猫サイズで街を見ているよう。また役者さんたちのパフォーマンスも目を見張るものがあります。すべての役者すべての歌がぞくっとするほど上手いし、ダンスの迫力がえげつない。このダンスに動く耳と尻尾を着ける技術は感嘆の一言です。主役のヴィクトリア役フランチェスカ・ヘイワードのダンスソロ、「人間って広背筋だけで感情表現できるのか……」と思って感動しました。あとイアン・マッケランの歌と演技もすごく響いた。
 テイラースウィフトの歌もさすがでした。というか、ヴィクトリアの歌も、曲の出来自体はめっちゃいいんですよ。メロディアスで王道ででも新しい響きがあって、歌詞もストレートによく伝わって情景も美しくて、テイラースウィフトがEDでテーマソングとして歌う分にはとても上等。「猫ヴィクトリアの歌」として致命的に人間臭すぎるだけで……
 しかし技術面の素晴らしさがこんなにも輝かしいからこそ……だからこそ最高のCATSを……この技術で見たかった………………
 もう最悪エンタメストーリーものでいいから、ちゃんと起承転結してご都合展開も物語に支障をきたすほどじゃなくて、原作の改変に意味がある映画を、この素晴らしい技術で見たかった………
 技術が素晴らしければ素晴らしいほど、存在しなかった理想の映画を夢見て悲しくなってしまう……つらい……

 


●おわり

 この記事をお読みくださった方、ありがとうございました。
 厄介オタクの鬱憤の捌け口でしかないブログですが、「だから映画は見ないほうがいいよ」とかネガキャンしたいわけではなく、「舞台の方がいい!」とマウントを取りたいわけでもなく、ただ「推しジャンルの映画がクソで悲しい…」という気持ちを吐き出したかっただけです。厄介オタクのお気持ち表明にお付き合いくださり誠にありがとうございます。
 とにかくしんどい、という気持ちを形にすることでだいぶ楽になった気がします。映画のことは自分の中で無かったことにすると思います。CATSはこれからも舞台で楽しんでいきます。
 それでは、すべての解釈違いに苦しむオタクが少しでも楽に生きられますように。