伊勢崎敬の二極性
伊勢崎敬くんお誕生日おめでとう!!!!!!!!
いつもtwitterとかでは敬チャン*1と呼んでるのですが、記事を書いてるうちにまた論文みたいになってしまった*2ので、今回は伊勢崎くんとお呼びします。
伊勢崎くんの魅力はなんといってもアンバランスなところ。美しいお顔立ちなのに無邪気な言動であったり、そうと思えば才能あるストライカーであったり、ギャップが尽きない。個人的には矢後さんとの同級生バカふたりの会話がテンポよくて好きです。
そして、元気でかっこよくて愉快な伊勢崎くんなのですが、内に抱えているものは深くて重い。
ここまで順番にキャラクターについての記事を書いてきたんですが、これまでの記事は共通して〝ヒーローとしての役割〟がキャラクターのモチーフそのものになってるのかな?というふうに考えてきたんですね。でも伊勢崎敬は、そういうふうに一元的に考えられないところがある。なので今回の記事は、内容に非常に悩みました。言っても言っても言い尽くせないのではないか?とも思う。難しい……
とにかくというかとりあえずというか、この記事では「伊勢崎敬を紐解く」というスタンスで書いていこうかと思います。
なんか大層なことを言ってしまいましたがノープランでつらつらと書いていくだけです。よかったらお付き合いください。
伊勢崎 敬
なによりも「面白さが第一」の天才タイプのヒーロー。
整った顔立ちだが小学生男子のような趣味趣向を持っており、
カブトムシや働く自動車をこよなく愛している。
佐海や霧谷と同じ養護施設出身だが、
現在は星乃家に与する、伊勢崎家の養子となっている。
(公式サイトキャラクター紹介より引用)
●単なる手段
伊勢崎くんの来歴は非常に特殊です。
上記のキャラクター紹介で「天才タイプのヒーロー」とされていますが、彼のサイドストーリーでは、その才能は後天的なものであることが明かされます。そしてその「後天的な才能の付与」が、伊勢崎・佐海・霧谷の出身施設の事件の遠因であることもわかっています。
当時春間敬であった伊勢崎くんは、事件後に独力で真相にたどり着いており、「施設襲撃事件を許さないため」に伊勢崎家に養子に入ることを決めます。
と、このようにヒーローたちの中でも群を抜いてヘビーな伊勢崎君の来歴なのですが。まず、悪意*3による人為的・後天的なヒーローの才能というのは『仮面ライダー』的だと感じました。
(仮面ライダー1話。かなり怪奇悲伝的な演出。)
含みのない、純粋な意味での〝悲劇のヒーロー〟ですよね。己の意志を伴わない犠牲によって、ヒーローとして目覚めてしまい、その結果闘争に身を投じることになる……いま「闘争」という単語を使いましたが、ヒーローの本質はやはり戦うことにあります。ヒーローの成り立ちに自発的な目的意識がなければ、ヒーローの本質としての闘争は、ヒーロー本人にとっても悲劇となり得るわけですね。
伊勢崎くんにとって「闘争」は、もちろんイーターとの戦いという意味でもあり、また「伊勢崎くんが伊勢崎家に養子に入った目的を遂行する闘い」でもあります。
そしてその目的とは、〝施設襲撃事件の原因を作った人間に対する他罰的行為*4〟ということです。
こうして伊勢崎くんの目的が「明確に個人的なものである」「明確に他罰的なものである」と描写されることで、伊勢崎くんがヒーロー活動を〝正義、あるいは救済のためにしているのではない〟と明らかになることが、物語構築の上で非常に重要なことではないか、と思うのです。
英雄的な行為とは、危機を退ける行為であり、人を救う行いです。そして、英雄的な行為は、旧来的には「それそのものが目的」つまり人を助けるために人を助けているんですね。人道に則った正義の行いです。
あるいは、近年の英雄譚で言えば「英雄として認められることで、自らの地位・自己認識を明らかにする」という目的で正義を行うヒーローもいます。これは、自らを救済すると捉えることもできます。
しかし伊勢崎くんにおいては、人を救う事、活躍し認められることが、一切の〝手段〟でしかないのです。彼の目的は、明確にほかにあるからです。
「ヒーロー」という概念に対する価値観が多様であること、これは『ワールドエンドヒーローズ』という作品の面白さの根幹であると、私は思っています。その中でも、伊勢崎敬というキャラクターにおける「ヒーロー」の価値観は異質で目を引きます。伊勢崎くん自身はヒーロー活動を「面白いから」やっている、というような表現をしますが、やはりそれは副次的なものです*5。〝手段としてのヒーロー活動〟は、乱暴なことを言えば、ヒーローとしての活動、人道的な救済を行うことが、ヒーロー本人にとって無意味であることを示唆します。私たちは、ヒーローに、人道的な行い・正義そのものに対しての報酬を期待してしまう。正義の行いや助けてくれた人への感謝の気持ちが、ヒーロー本人を喜ばせると信じたい、そういうところがあります。しかし、伊勢崎くんにとっては、極端なことを言えば、ヒーローとしての活躍における達成感や感謝は、伊勢崎くんの目的に対して寄与しない、意味をなさないものである。伊勢崎くんは「かっこいいから」活躍することを誇りはすれど、ヒーロー伊勢崎敬への不特定多数からの好意に対しては無頓着です。それは、理解できないからではなく「意味がないから」……というのは穿ちが過ぎるかもしれませんが、無関係ではないと思います。
こうした〝ヒーローという存在の、ヒーロー本人への無意味さ〟という価値観は、多様な価値観の中でもビビッドであり、考えさせられるという面で、作品の深みにおおいに貢献していると考えます。
●愛の人
上のように書くと、伊勢崎くんはドライで利己的な人物像に見えてしまいますが、そんなことは一切なく、むしろ「愛の人」であると私は思っています。
「愛の人」というふうに題目をつけるとちょっと気障で、なんとなく伊勢崎敬よりも頼城紫暮あたりに似合いそうですが、情の深い人、深すぎる人という感じのニュアンスで捉えてください。個人的な印象だけで言うと、頼城さんが持っているのは〝フィリア〟(ギリシア的価値観)で、伊勢崎くんが持っているのは〝仁〟(儒教的価値観)というような、感じがあります。「仁者はよく人を愛し、よく人を憎む*6」とも言いますね。
伊勢崎くんが施設襲撃事件を起こした相手を「許さない」のも、家族同然であった施設の仲間が大切だからであり、その居場所を失った怒りからでしょう。またその愛情故に、対象となる佐海くんや柊くんの危機に際しては、身を挺することに一切の躊躇がありません。
こうした情の深さと、情の深さに端を発する自己犠牲的な一面は、まさしく英雄の素質であると言えます。後天的な、人為的なものではない、伊勢崎敬が春間敬のときから持っている資質です。
だからこそ、佐海くんや柊くんにとって、そして読者の私たちにとって、伊勢崎敬は偉大なヒーローであり、そうであるからなおのこと、伊勢崎くん自身の悲劇性、ヒーローとしての愛情深い本質と手段としてのヒーローという無意味さの二極性に、深い悲しみをおぼえ心を揺さぶられるのだと思います。
●おわり
めちゃくちゃ真面目になってしまいました……
イベントシーンとか、普段の敬チャンの楽しいところ、ウキウキした可愛さとか言葉のうまさとか、駄菓子のカードを集めてるようなところとかもすごく好きなので言及したかったのですが、思いのほか論文になってしまいました。
今日は仲間といっしょにいっぱいはしゃいで楽しいことしかない一日を過ごして欲しい!指揮官も混ざって遊び倒したい!ハッピーバースデー!!!!