ヤッターオタクたのしい!!

ワーーーーイ!!

世界の終わりに、ヒーローとは何か考える。

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ありがとう、ワールドエンドヒーローズ

 


 2020年8月20日、本日、『ワールドエンドヒーローズ』はサービス終了を迎え、オフライン版ver3.0.0がリリースされました。


 当ブログは昨年10月、指揮官着任直後だった私の「少しでもワヒロのユーザーが増えたらいい」という一心で開設されたものです。結果、たくさんの方に記事を読んでいただき、とても嬉しかったです。twitterで考察に対する別の視点や、私の知らない記述を教えていただくことも多くあり、ワヒロを何倍にも楽しむことができたな!と思っています。読んでくださったみなさん、本当にありがとうございました。

 

 今回のサービス終了に伴い、「ワヒロのユーザーを増やしたい」というブログの目的が失われ、当ブログに私が与えた役割も終わります。

 

 


 だからこれからは今まで以上に好き勝手書いてくからな~~~!!!!!!

 見てろよ!!!!!!!!!!!

 


 なんとオフライン版ではすべてのストーリー(メインストーリー、イベントストーリー、カードストーリー、各キャラクターのサイドストーリー)が制限なく読めるとのことで、正直オフライン版になった後のほうがハチャメチャ忙しいのでは……??? この膨大なテキスト量……読むのか……!! とたいへんワクワクしております。

 もちろんサービス終了はとても残念なのですが、考察オタクとしては完結してからが本番みたいなところあるし、言うてこんな最高の物語ここで終わらんやろいい加減にしろ(ドポジティブ)と思っているので、また次のワヒロに会えるまで元気よく明後日を向いたブログを書いていこうと思っています。よかったらお暇なときにでも、お付き合い頂けましたら嬉しいです!

 

 本当はサ終当日に合わせて「終わるソシャゲと私」みたいなエモさある記事を書きたかったんですが、そもそも私がエモみも何も無かったので無理でした。

 なので諦めて、いつものように「ワヒロ、おもしろ~~!!!!!」て言ってるだけの記事を書こうと思います。

 

 いつになく前置きが長くなりましたが、私の精一杯のエモだと思って許して下さい。以下本編です。

 

 

 この記事は、「ヒーロー」について考える記事です。

 

 

ヒーロー【hero】

 ヒーローとは、敬慕の的となる人物。英雄。
 武勇や才知にすぐれ、普通の人にはできないような事柄を成し遂げる人。 

 

 

 
 『ワールドエンドヒーローズ』は、ヒーローたちの物語。
 じゃあヒーローって、一体何なのか? 
 この、「ヒーロー」という語の運用にまつわる色々が、『ワヒロ』を面白くしている一要因じゃないだろうか?
 ……と思ったので、せっかくすべてのストーリーが読めるようになったこの機会に、ざっくりと考えてみたいと思います。
 あくまでもざっくりなので、ガバなところもあるかとは思うんですがご容赦ください。ご指摘などありましたらコメントやtwitterのお題箱に頂けますと幸いです!
 

 

●「メタ"ヒーローもの"」の定型化

 『ワヒロ』の話そのものの前に、ちょっとだけ背景を考えてみます。

 

 本来、いわゆる「ヒーローもの」の作品世界における"ヒーロー"は、自分自身をヒーローだと認知することができません。

 英雄は、偉業を為すという事業そのものがストーリーになります。「ヒーローの、ヒーロー以前」がストーリーとして提示されるわけで、主人公自身は当然、自分をヒーローだと思っていません。あるいは救国救世の強者が主人公だとしても、本人の自認はあくまでも戦士、せいぜい"正義の味方"までであって、自分自身を"ヒーロー"と認識することはできません。

 ですが昨今、特撮ヒーローやアニメーションなどが広く親しまれたために、いわゆる「ヒーローもの」のジャンルとしての普遍化が進み、定型として捉えられることが多くなりました。それに伴い、英雄譚の定義とは異なる狭義のヒーロー=「『ヒーローもの』のヒーロー」は、ひとつのキャラクター分類として成立した、と考えます。

 

 そして、このキャラクターの大枠が成立することで、「主人公は"ヒーロー"である」ということが、物語のシステムとして機能しだしました。ミステリーにおける"探偵"やサスペンスの"刑事"のように、ストーリーを推進するための装置の役割を担うようになったのです。

 

 また一方で、"ヒーロー"のキャラクターとしての成立が、「"ヒーロー"を自認する主人公」というメタ的なキャラクターを生み出すに至りました。

 そうして、たとえば『スパイダーマン:ホームカミング』であるとか、『僕のヒーローアカデミア』『ワンパンマン』というような「"ヒーローもののヒーロー"を自認している主人公」「"ヒーローもののヒーロー"を目指す主人公」の物語が語られ始めました。これをこの記事では便宜上、「メタ"ヒーローもの"」と呼ぶことにします。

 

 フィクションにおける「ヒーロー」という存在が、そもそも移ろい変わってきたものである、ということです。

 『ワヒロ』における「ヒーロー」という語の運用には、こうした「"ヒーローもの"作品群の変遷」が前提にあると考えます。

 


●『ワヒロ』における"ヒーロー"自認

 『ワールドエンドヒーローズ』の世界では、「ヒーロー」は「社会の維持に必要なポジションの名前」として認識されています。明確な世界への脅威に対して「ヒーロー」という役割が必要とされる、という点で、ヒーローは上で述べたような「装置」として物語のシステムを回しています。"ヒーローもの"としては二次的以降の作品であると言えるでしょう。
 

 また『ワヒロ』のヒーローたちは、基本的には「"ヒーロー"である自認」更には「"ヒーローもののヒーロー"である自認」についてたびたび言及します。

 ヒーローになりたい、という主人公、三津木慎。ひたすらまっすぐに弱者の味方を標榜する佐海良輔。社会のシステムに組み込まれたヒーローという存在に自覚的な志藤正義。頼れる人、理想の具現であろうとする頼城紫暮。

 彼らが目指すものは、ひたすらに「"ヒーローらしい"ヒーロー」であり、「メタ"ヒーローもの"」のキャラクターらしい造形と言えます。

 また、今名前を挙げたキャラクター以外も、社会における"ヒーローらしさ"というものをきちんと理解しており、その"ヒーローらしさに対する自分"という認識がある時点で、「メタ"ヒーローもの"」としての自認があると考えられます。

 なんだかごちゃごちゃと書きましたが、つまり、『ワヒロ』のキャラクターのほとんどは、「"ヒーローもの"でみられるようなヒーローらしさ」について自覚的であり、それを前提として認識・行動しているということです。

 

 しかしながら、彼らの"ヒーロー"に対する認識・自認は一様ではなく、様々な"ヒーロー"らしさが、いろいろなキャラ・多様な角度から描かれていきます。メタ的なヒーロー自認は一貫しているのに、そのヒーロー像自体は多様化しているのです。ここも、『ワヒロ』の面白さのひとつであると思います。

 


アンチヒーローの不在

 "ヒーロー"という存在を描くにあたり切り離せないのが"悪役"の存在ですが、こと「メタ"ヒーローもの"」において、より強烈に描かれるのがアンチヒーローの存在です。

 ダークヒーロー、ダーティヒーローとも言われますが、ヒーローらしさの逆をいく露悪的な面や粗暴な面が有りながら、"ヒーロー"と同じシステムを回す機能を持つキャラクターです。

 

 キャラクターが"ヒーロー"であるという自認を持つ作品において、アンチヒーローは"ヒーロー"に対する定義・価値観の否定や猜疑を提示します。「ヒーローをメタ的に描く点に主眼を置く作品」においては、アンチヒーローは非常に優秀な反例であり、そのキャラクターを描くことで主人公(正位置の"ヒーロー")の葛藤や自省を物語にすることができます。

 しかし、『ワヒロ』という作品に「アンチヒーロー」の役割だけで描かれるキャラクターは存在しません。敢えて言うなれば、敵役/悪役である七見薔明が広義のアンチヒーローかもしれません。しかし七見は悪役を担っていますので、純粋な「アンチヒーロー」は『ワヒロ』の物語に不在なのです。*1

 

 このことは、『ワヒロ』は「"ヒーロー"の概念に疑念を呈する物語ではない」ということを示しています。

 しかし、私たち読者は、『ワヒロ』が「ヒーローとはどうあるものか」を描き、キャラクターたちがこの命題に揺れ動き苦悩することを知っています。"ヒーロー"という概念に反論の無いままで、どのようにして物語は描かれているのでしょうか。

 


●「メタ"ヒーローもの"」をメタ認知する、システムの継承

 上で「ヒーローたちは、"ヒーローもののヒーロー"として自身の役割を認知している」ということを述べました。しかし実は、その枠に嵌らないキャラクターが二人います。

 

 エンタメ過激派の天才技師、浅桐真大。

 そして底辺のヒーローを自称する、北村倫理です。

 

 作中でも「ナイトメアコンビ」などと呼ばれ異彩を放つこの二人は、『ワヒロ』の物語において、たびたび強力な推進剤としての役割を果たしています。たとえば、一章の主人公との出会い。二章の黒幕。四章の展開で外せない、浅桐さんの「例のシーン」は読者を非常に動揺させましたし、五章の最終戦闘に入ってからは、倫理くんの先導によって物語の動きが変わることが何度もありました。

 そして、浅桐さんと倫理くんは共通理解を持っていることが作中で語られています。本人たちも、互いに共通する異質さに自覚的なわけです。

 

 では、この二人に共通する異質さとは何か。

 それは、二人のヒーロー自認が「《メタ"ヒーローもの"》のヒーロー」としての自認であることです。

 

 《メタ"ヒーローもの"》のヒーローとしての自認。語が繰り返していて厄介ですが、要するに「自分が展開を推進するシステムであると認知している」ということです。

 こう記述するとメタフィクション登場人物がフィクションであることを自覚しているフィクション)のように思えますが、『ワヒロ』は決してメタフィクションではありません。あくまでも「ヒーローがメタ的に存在する現実」をリアルに描いています。

 その中で、浅桐真大と北村倫理は、「"通念的なヒーロー観"が社会にどんな影響をもたらすか」を思考している。またその上で「"通念的なヒーロー"である自分がどのように行動し、どのように社会を変えていくか」というところで戦っているのです。

 

 この二人の自認は、"ヒーロー"の是非を問うことはしません。"通念的なヒーロー観"が既に存在する社会において、その是非を問うことはもはや無意味だからです。したがって、『ワヒロ』にアンチヒーローは存在しません。

 そうではなく、「既にある"ヒーロー"というシステムを理解した上で、どう戦えば(生きれば)現状を打破できるか/望む展開を得られるか」

 二人の、一段上に上がったメタ認知のお陰で、『ワヒロ』のストーリーでは常にこの命題が与えられます。浅桐真大が命題を提示することによって、あるいは北村倫理が二元的な言論を唾棄することによって。キャラクターたちは、善悪・合反ではなく「どう戦う(生きる)か」を考え続け、揺さぶられることになります。

 

 これが、『ワヒロ』の世界を複雑に、より面白く、より多彩にしている一因である。そのように私には思えます。

 何者であるか、を問うのではなく、どのように在るか、を問う物語。

 だからこそ、読者は多様な社会を生きる自分たちの「リアル」を感じ、キャラクターの葛藤や挑戦に心を打たれるのだと思います。

 そして、主人公の選択と物語の結末に感動し、また思考するのです。

 


●おわり

 というようなわけで、『ワヒロ』で描かれる"ヒーロー"とは何か考えるというざっくりしたお話でした。

 思いきり好き勝手に書くと論文みたいになってしまうの、なんでなん……?

 読みにくかったら申し訳ありません。実は8/20当日にめちゃくちゃ急いで必死で書いています。

 

 最初の方に、ワヒロを知ってもらいたいがためにブログを移設したという話をしましたが、こうして何度も何度も長々とした怪文を書き綴らせるだけの魅力が『ワヒロ』という物語にはあります。

 せっかくオフライン版で全部読めるようになったことですし、この機会にぜひ『ワヒロ』の物語に触れてもらえたら、たくさんの人に読んでもらえたらいいな!そしてワヒロの話がいろんな人とできたらいいな!と思っています!!

 

 

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 それでは、最後までお読みいただき、ありがとうございました!

 

*1:北村倫理が「アンチヒーロー」である、と思う方もいらっしゃると思います。私も広い意味では倫理くんがアンチヒーロートリックスターを担っているのだろうと思うのですが、今回はヒーロー自認の話なので、「ヒーローという概念に対して反例を出し得るかどうか」の一点に絞り、アンチヒーローか否かの判断を行っています。