久森晃人の普通とは
久森晃人くんお誕生日おめでとう!!!!!!!!!!!!!!!
久森くんの、ところどころに滲む絶妙なオタク語彙が好きです。笑
特異な才能、特殊な来歴を持っているのに、身のこなしがどうしても地味なところ。その一見した地味さが久森くん本人の体験と体験による人格形成に由来しているところ。とてもキャッチーなキャラクターだけど、そのキャッチーさが緻密に計算されていて味わい深いキャラクターだよなあと思っております。
風雲児の総合謝罪窓口、もとい意外とヤワじゃない副長。いつも活躍ありがとう!押忍!
というところで今回は、久森くんのキーワード、"普通"を考えていこうかなという記事です。
●"普通"の多義性
久森 晃人
ヒーロー業に微塵も興味がなかったが、持って生まれた
「未来視」能力のせいでヒーローをやる羽目になった被害者。
ケンカ嫌いの常識人にも関わらず、周囲からは
「風雲児のナンバー2」と認識されており、大変迷惑をしている。
いつかきっと普通の生活に戻れると信じ、今を乗り切っている。
(公式サイトキャラクター紹介より引用)
ワヒロのキャラクターはみんな何かしらの"主人公"としての性質をモチーフに背負っていると思っているのですが、久森くんはいわゆる「巻き込まれ系主人公の定型」がモチーフになっているのではないかと思うのですよね。
そして面白いのが、あくまでも巻き込まれキャラの"定型"が"モチーフ"になっているのみであって、久森くん自身はそうした定型から大きく外れたキャラクター造詣をしているのです。この久森くんのキャラクター造詣は、なんというか「キャラクターがストーリーの大きな事象に巻き込まれることに関しては一家言ある」くらいの制作者の強い意志*1を感じます笑。
久森くんは未来視という特殊能力を持っており、本人は一般人を自称しますが、どう考えても"普通"ではない人です。しかも、イベストやサイドストーリーなどを読んでいくとわかるのですが、この"普通"ではない、という認識は「自他共に」の認識なのです。ですから、久森くんの一般人であるという自称は、自認をもって"普通"を装うために行われているのだということになります。その装いの形が、先に言った巻き込まれ系主人公の定型と面白おかしく一致している、というようなキャラ造詣なのだと思います。
そもそも、久森くんが希求する"普通"とは何なのか。
私たちはごく当たり前に「普通」という語を運用しますが、実際のところ、「普通」という言葉は非常に多義的です。
ふ‐つう【普通】
【一】[名・形動]特に変わっていないこと。ごくありふれたものであること。それがあたりまえであること。また、そのさま。
上は辞典の第一義に載っている「普通」の意味なんですが、一・二文目と三文目って意味が違うと思いませんか?
「変わったことがなくありふれている」ことと、「当たり前である」ことって状況が違うんですよね。
それで、たぶん久森くんというキャラクターにおいては、この多義性が意図的に使われていると思うんです。その制作的意図が強く感じられるのが、『復刻イルミネーションサイレントナイト』のストーリーです。
『イルミネーションサイレントナイト』はアプリリリース初期に開催されたイベントで、本筋のストーリーは、久森くんの被害者体質とその環境にあって久森くんがどういう選択をするか、彼のヒーロー性が語られる物語です。その後1周年を目前に復刻イベントが開催され、その際に追加ストーリーが公開されました。
メインストーリーも時間経過に従って進み、キャラクター各々の活躍が描かれる中、復刻追加のストーリーは、イベント開催当時よりも深くキャラクターを掘り下げる内容になっているかと思います。そんなストーリーで出てくるのが、この「木を隠すなら森の中」というフレーズです。
「木を隠すなら森」の「森」というのは、「同種のものの群がり」という意味です。同様のものがたくさん集まっている状態を、「当たり前の状態」と言い、当たり前の状態を"普通"と言います。
翻って、「変わっていないこと、ありふれていること」を指す"普通"は、このフレーズの直前に直接的に出てきます。
そして、久森くんが希求している"普通"というのは、この「ありふれている」方の"普通"なのですよね。アニメディア連載のバケツ通信*2でも詳しく描かれましたが、久森くんは彼のお母さんの志向性に強く影響されています。その能力と能力による影響を恐れている久森くんのお母さんは、息子に対して"普通"でいることを求めました。お母さんなりの防衛方法であったわけですが、この志向に影響されて、久森くんの"普通"を装うという現在の人格が形成されていきます。
余談ですがこのバケツ通信の中では、"普通"という言葉に、更に意義を付与している感じがあります。「ありふれている」が転じて、「有象無象」のような、世の中に当然あるくだらなさ、という意味合いが持たされている場面があるのです。ワヒロは本当に名もなき群衆に対しての目線が冷たい。
ともあれ、そのように「ありふれている」"普通"を希求している久森くんですが、一方で自身が"普通でない"=「ありふれていない」ことに対しての強烈な自覚もあります。
「ありふれている」"普通"は久森くんの手に入らないけれども、「当たり前である」"普通"は手に入る。そういう形で、『イルミネーションサイレントナイト』の復刻追加ストーリーは久森くんへの回答になっているようです。
「ありふれている」"普通"が「当たり前」で"普通"だった昔よりも、まったくありふれていない環境にいる今の「当たり前」"普通"を享受する。そうした解決が図られているのだと思います。
●平穏を捨つども超人にあらず
そもそも、"普通"を希求すると何度も書いているのですが、「ありふれていること」そのものには久森くんにとって価値が無いと思うのですよね。
久森くんが普通でいたいと願うのは、普通でいれば何事も起こらないと思っているからです。
これは[捨てた憧憬]のカードストーリーの一場面ですが、このカードストーリーのタイトルは「憧れた平穏」とつけられています。
平穏とは、何事もなく穏やかなさま、という意味です。
突然神学的な話をしますが、平穏とか安穏とかは、宗教的な見方で言うと幸福を示すのですよね。何事も無いということは苦しみ悲しみも無いということ。何もない境地へ至ることが、古来宗教的には「良い」とされてきました。
それに対して反論したのが「神は死んだ」でおなじみのニーチェであります。このニーチェの超人思想のお話は、矢後さんの記事を書いたときにめちゃくちゃ怯えながらちょっとだけしました。
そう、つまり矢後さんの「超人」に対して久森くんの「平穏」と、対になっているわけですね。
しかしこの対は完璧な対立ではありません。
なぜなら久森くんは、その平穏に対しての憧れを捨てているからです。しかも、捨てた理由は「超人思想的な因果」と全く関係のない、押しに弱くお人好しで自分本位になりきれないという、久森くん個人の人格的な性質に由来するものです。
久森くんというキャラクターは、矢後さんのキャラクターと概念的に対になっているものの、その超人思想に依存した対立項なのではなく、久森くん自身のモチーフ由来に表れた人格に準じた、久森晃人自身で自立したキャラクター造詣になっていることがうかがえます。
この、「対になっているがお互いに自立している」という概念の形成が本当に巧いなあと思っていて。
風雲児の二人の関係性の魅力的な部分に反映されているのだろうなと感じます。
●おわり
ということで普通じゃない久森くんの普通、というお話でした。
久森くんの周辺で言えばこの普通の話だけじゃなく、たとえば巡くん寿史くんとの「関係性の相似と友情」とかそういう視点もあるなあと思うんですが、そういうお話もまたの機会にしたいと思います。
こういう言葉の多義性をうまく弄るような設定の組み立て方はワヒロにすごく多い特徴だなと思っていて、今回久森くんの記事でこういうお話ができて良かったです!!
久森くんハッピーバースデー!!平穏なばかりではなく、楽しいことで忙しいくらいの恵まれた一日になりますように!!