ヤッターオタクたのしい!!

ワーーーーイ!!

超人、矢後勇成

 

 矢後勇成さんお誕生日おめでとうございます!!!!!!!!!!!!


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 強くて縛られない矢後さんの常に戦っているところが好きです。
 あと、気分屋でダウナーなんだけど、意外と周りを冷静に見ていてツッコミ気質なところとかも好きです。復刻温泉イベの追加ストーリーで、正義さんに「(卓球台を)壊すからやめとけ」って言うの、キミが言うんかいと思って笑った。
 風雲児の愛され総長、圧倒的なパワーを持って敵と対峙する姿は、本人が望む望まざるに拘わらず、やはりまさしくヒーローなのです。いつもありがとう!!

 

 さて今回は、矢後さんのテーマがそのものずばり"生きること"である、というお話です。

 


●かく語られき

矢後 勇成
不良ばかりが集まる学校、風雲児のトップ。
痛みを感じない特殊体質のため、馬鹿力が出せる「超人」。
気管支系の重い合併症を患っており余命宣告を受けているが、
何故か余命を更新し続け、医者に不思議がられている。
派手な喧嘩以外に興味がなく、暇なときはだいたい寝ている。
公式サイトキャラクター紹介より引用)

 

youtu.be


 特別な力を持った出生というのは実に英雄っぽいですね。特異体質、特別な出生というようなわかりやすい「特別さ」が、一筋縄ではいかない子たちにばかり付与されているのが、ワヒロ全体に根を張る逆張りの精神というか、アンチテーゼというか、意思的なものを感じて面白いです。
 そういういかにもヒーローっぽい矢後さんの設定なのですが、実は矢後さんのモチーフは、かなり明確にされています。珍しく(本当に大事なことはわりとなにも書いてない)公式キャラ紹介にも出てきています。
 矢後さんを象徴する単語、それは"超人"です。

 

 当たり前やないかと思われるかもしれませんが、これはおそらく哲学用語です。つまり、ニーチェツァラトゥストラはかく語りき』で著されている、ニーチェの言うところの"超人"であります。


 ニーチェ『ツァラトゥストラかく語りき』(河出文庫)/Amazon,Kindle
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 つまり矢後さんの話をするということは、ニーチェの話をするということであり、ハア・・・・・・めちゃくちゃ気が重てえ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 浅学なもので、超人思想を理解しているとはまったくもって言い難いのですが……わかってないものを説明するのものすごく腰が引けるのですが……とにかく今回は、矢後さんがなんで"超人"なのかというところを、さら~とふわ~とお話していけたらなと思います。ご勘弁ください。よろしくお願いします。事前の保険のかけっぷり。


 じゃあそもそも、"超人"てなんなのかというところなんですが、ニーチェの基本的な世界観が「永劫回帰」といって、要するに絶望的なこの世が延々と同じように続いていくんだよという、救いなんてないよというペシミズム的な捉え方だという前提があります。終末の裁判なんて来ないし、終末が来ないから救われることもない。神教的価値観の否定ですね。
 これ、すごいワヒロの価値観ぽくないですか?
 地球が地球として存在する世界が、恒常性を保って永遠に続いていく。そんなことは苦痛だから、自らの手で終末を起こしてやろうとしたのが七見たちアンノウンズだと、そういうことなんですねえ~。今なんで急に池上彰さんになったの?

 

 まあそういう、不変で無意味なこの今日が毎日永遠に続いていくという世界観の中で、人間たちは暮らしているわけですね。人同士の争いで怯えたり悲しんだり、平穏を求めたりする。来世信仰的な宗教の多くは、最大の幸福を「安寧」だとします。"恐ろしいことがおこらないこと"が幸福だとする考え方ですね。そういう安寧を、普通の人々は求めている。
 そんな普通の人々に対して、「いや、安寧が幸福なのではない。今の不変で無価値な一瞬一瞬に価値を見出し、肯定的に生きるのだ」として生きていく考え方をニーチェは提唱しています。そしてそれを行う人間こそを、"超人"と呼ぶのです。安寧を求める"ひと"を超越し、"己の生を生きる者"。
 自身の確たる意思をもって、不変である同一の経験を価値あるものにしている者。それが"超人"であり、矢後勇成のモチーフなのです。

 

 ……ああこえ~~~!!!わかってないこと説明するのこわ~~~!!!間違ってたら容赦なくつっこんでくださいね、どうぞよろしくお願いします……!!!!

 


●運命に抗わず、運命を覆す

 矢後さんは、病に冒され、余命を宣告されています。イベント『春の昨日の、その明日。』では、日常生活も具体的に制限されていたのだろうというところまで描写されています。

 
 これは復刻イベント当時の私のツイッターでのぼやき。
 こうした生い立ちがあるからこそ、矢後さんは"今を生きる"ということにものすごく執着します。この刹那的な"生きる"とは、つまり、"超人"として生きる、ということです。今日という日に意味があるように、意義ある繰り返しの体験の積み重ねという人生であるように生きるということ。そして矢後さんの「意味」は、"特異な体質の生まれ"という英雄性の因果をもって、"戦い"へと向かっていくことになります。

 もう何回も繰り返してるのでブログ読んでくださってる方には耳タコだと思うんですが、私はワヒロの物語を「どう"戦う"かが、すなわちどう"生きる"か」というお話だと捉えています。矢後勇成というキャラクターは、特にその特質を体現していると思います。こと矢後さんにおいては、"生きる"と"戦う"がほぼ同一と言っていいくらいに密接になっている。面白いのが、こうした矢後さんの"超人"としての在り方が、「結果的に」矢後さんの運命を覆す結果に結びつくというところです。

 矢後さんの生き方は、矢後さん自身の意思として、運命に抗いたいと思っているわけではないと思うんです。ヒーローとしてもそうで、ヒーローでありたいと願っているわけでは決してない。矢後さんはひたすらに己として今を生きているだけ。それが結果的に、「矢後勇成が死ぬ」という運命を覆し、運命を変更するという、ワヒロにおけるヒーローとしての在り方を全うしている。「生きること」を全うするから、逆説的に「死なない」ので、「死ぬ運命を覆す」。複雑でめちゃくちゃ面白いですよね……だけど矢後さんの意思はすごくシンプル。この緻密さがほんとにおもしろい。ワヒロの面白さの最たるところですよね。

 

 

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 これは[桜の木の下で]矢後勇成のカードストーリー「体が痛まなくても」の一場面なのですが、私この比喩がすごく好きなんですね……美しくて……
 なかなか開かない踏切は、明確に此岸と彼岸の境目を象徴しています。矢後勇成は、開かない踏切の前で"ただ待っている"のは、「ダルい」。良しとしない。

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[桜の木の下で]矢後勇成カードストーリー「体は痛まなくても」より

 

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『春の昨日の、その明日。』9話「平等じゃねえ」より


 そこに指揮官から連絡が入る。ヒーロー矢後勇成へ、出撃の依頼です。矢後さんは踏切の前で待つのをやめて、戦いへと踵を返す。

 

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『春の昨日の、その明日。』9話「平等じゃねえ」より

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矢後勇成サイドストーリー4話「まだ生きる」より

 カードストーリーの、「踏切前」というなんでもなさそうな情景の描写が、矢後勇成の生き方そのものの比喩になっているんですよね。


 そして、矢後さんの、命の限界に端を発した刹那的な価値観は、結果として"超人"としての生き方に結びつき、その生き方を全うすることで、ヒーローとして存在している。すごい構成だ……

 


●物語全体のテーマ

 矢後さんのこの、"生きる"というテーマなんですが、これってワヒロという物語全体を支配しているテーマだと思うんですよね。さっきも言った、「どう戦うかがどう生きるか」という話ですね。
 極端なことを言ってしまえば、生きるって「命がある状態」も"生きる"って言うんですよね。でも、そうじゃなくて、何を選ぶか、どう行動するか、何と戦うか、そうした選択に自分の確固たる意志があるのか。その答えを手に入れてはじめて、「生きる」と言えるんじゃないのか。ワヒロのテーマって、そういうことだと思うんですよね。

 巡くんの記事を書いたときにも思ったんですが、自分が何者であり、何を為し、何を決断するのか、を強く問う物語。
 矢後勇成というキャラクターは、そのテーマに対する"答え"のひとつなんだと思います。

 

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メインストーリー5章109話「世界の最後」より


 最終局面において、運命の巻き戻しに即答する矢後さん。この潔さは、"生きた"からこそであり、その結論の速さがまた、やはり矢後さんは「答え」なのだなと思わされる。

 

 Q.どう生きるのか?
 A."超人"として生きる。今に価値を、意味を見出して生きる。

 

 矢後さんの表面だけをとらえてしまうと、じゃあ例えば闘病のために何も為さないことを選ぶのは戦ってないのか、ということになってしまう。でも矢後さんは"超人"なので、決して為さないことへの否定ではないんだなと思います。"超人"の持つ体験は、「己の確固たる意志」によって十全に本人に委ねられるからです。生き長らえるために何も為さない、という選択に確固たる意志がある決断ならば、その生き方もまた"超人"として生きていると言えるからです。

 そしてまた、矢後さんに「対立」する存在もあります。それがワヒロの面白いところで、答えがひとつではないんですよね。
 あくまでも、矢後さんは「答えという可能性のひとつ」。だからこそ、矢後勇成というキャラクターが自由で生き生きとして見える。それに、矢後さん自身に多様な可能性が見えるのだと思います。戸上さんと肩を並べたり、頼城さんと小競り合ったり、久森くんから大仰な誤解を得たり理解を得たりする。答えだからといって完全に完成しているキャラクターではない。そこがまた魅力ですよね。

 


●おわり

 今回は…とても不安です……いつもフワフワした記事ですが今回は特に説明ヘタクソマンになってしまった気がします……すみません……愛はあります……なんかわからないところ、間違ったところがあったらコメントなり、twitterやお題箱なりで教えていただけると、たいへん助かります……
 矢後さんの強いテーマ性、その生き様、描かれ方がすごく好きなので、今回お話できてよかったです。
 それとは別に矢後さんの猫っぽいところ、最上級生なのになんか甘え上手じゃない?みたいなところもたいへん好きです。かわいい。今日は舎弟の皆さんにたくさんお祝いされていることと思いますが、私も混じって元気にお祝いの花火をぶち上げたいと思います。スイカも買ってあげようねえ。ハッピーバースデー!!!!!!!!!

 

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